自分の男が飲めないからといって、人を愛の巣に呼びつけるのは止めて欲しい。
旦那不在の自宅でマリエちゃんはご機嫌に出来上がり、ようやく帰って来た家主は僕に「ただいま」を言うと早々に寝室へと消えてしまった。
なにかおかしい……。なんか変。元は旦那の方が知り合いだったハズなのに。
「挿して~、抜いて~、あ挿して~」
グラス片手にジェンガをつまんで、マリエちゃんは独り言のようにこぼす。
コイツおかしい。絶対、変。
「あー、イッちゃう。イッちゃう……ハイ崩れたー」
雪崩を起こした木の束がテーブルへ散らばる。次はUNOかしりとりか——なににつき合わされるのかボンヤリ考えていた。
「イッちゃったんだよ。多分だけど」
この話したっけ? と続けたマリエちゃんへ曖昧にかぶりを振った。
「今、弟が行方不明でさー。多分もうダメかもしんないんだよ」
彼女に弟がいたこと自体、初耳だった。
「どこにいるか分かんない? ん~って」
マリエちゃんは力を込めて握り合わせた手を離して、それから大きくため息をついた。
人をロシアの超能力者扱いしてくれるのはご自由だが、こんなところで悠長に酒を煽っている場合ではないと思う。
「次に捜索してもらえるの三ヶ月先とかなんだ」
どうやらマリエちゃんの弟さんは冬に一人で山へ入り、そのまま行方知れずになってしまったようだった。
雪がひどくなり捜索は一時断念。春を待って再捜索の運びとなった。
「私は、まあ……弟のことだし、自分が好きでやったことの結果だから。親とか弟の婚約者の方が辛いと思う」
言うとマリエちゃんは腰を上げた。まだあると言っているのに、新しい缶チューハイを持って来る。アルコール分9%以下を許すつもりもないらしい。
マリエちゃんは再捜索の時期に合わせて仕事を辞め、しばらく実家に帰る算段だそうだ。まあ、妥当だろう。
専門家が想定する行き倒れのルートや避難先も捜索してもらったが、亡骸ですら見つかっていないという。
——見つかってないってことは、まだ可能性はあるんじゃない。
弟さんが行方を眩ましてから、その時点で三ヶ月は経っていた。悪戯に期待を持たせるのはよくないが、なんと言っていいか分からない。
我が知り合いのことなら、大阪は生○あたりのマンホールの下でも泳いでるんじゃないかと口に出してしまうが、そうもいかない。
「弟の婚約者の子が可哀想でさ。だいぶ落ち込んでるし」
——逃げられたと思ってるとか?
可能性があるとすれば、それしかないと思った。結婚が嫌で言うに言えず……それならどこかで生きてはいるが、どちらがいいと言われてどうとも言えない。
「それはないと思う。……弟の親友に会社やってる凄い金持ちの人がいてヘリ飛ばそうか、って話にもなったんだけど婚約者の子が断ったんだよ」
——気を使って?
「もう絶対ダメだから、って。かなり大きい雪崩も起きてたらしいし」
——まあ、悲観的にもなるよね
マリエちゃんはバラけたジェンガを軽くかき混ぜた。
「リュウ見たからダメなんだって」
——ルウ?
「龍、龍。その婚約者の子、昔から龍をたまに見るんだって」
——メンヘラ? 更年期?
ジッ、とマリエちゃんが僕を睨んだ。
「龍の死体。道路にグデーっとなってるの見るっていう言うんだよ」
——それを見ると不吉なことが起こる、と
干物になったカエルの轢死体みたいな色の貝柱をつまむ。高級おつまみは、人様の家でしか口にできない。
「学校の帰りとかによく見てたんだって。見ると不吉って、私もそう思ったんだよ。婚約者の子もそう思ってたんだよ」
——違ったんだ
龍を刺身にして食ってしまう九井諒子の漫画を思い出した。「龍の活け造り」、「辰刺し」なんて粋だ。
逆鱗は高級珍味で、分かった風な親父が”乙だね~”なんて言いながら、軽く炙ってポン酒で一杯やるんだろうか。なんせ81枚のうち1枚。龍一体につき一つしか取れないわけだからお値段も相当——
「死にかけてるの見たんだって」
妄想に包丁を入れる低くても女の声があった。
「死体見ると、なんか不吉だからって逃げてたらしいの。でも、”死にかけ”を初めて見たんだって」
——まだ息があったんだ
「弟が行方不明になった山の近くで見たらしくて……そのとき二人でいて、弟に言っちゃったらしいんだよ」
——それで面白がって弟さんは山に入ったの?
ガタタっと音がして、家主がトイレに入る気配のした。
「婚約者の子は止めたらしいけどね。バカだから今度登る山をそこに決めちゃったみたい」
——山の近くで行き倒れしてた龍ねえ……
横たわり、肩で息をし、黄ばんだ蛇のような眼で睨みを利かせる真っ白な龍を想像した。
「私と同じで根拠ない自信家で挑戦家だからさ。ルート外れて獣道みたいなとこ入っちゃって遭難しただけだと思うけど……」
——あの山に登ったのは私のせいだ、ってその婚約者の人は気に病んでるわけ?
龍の……刺身の食感を想像していた。もちゃもちゃと歯ごたえのあって噛み切れない、赤身か白身か——
「死んでるのは危なくなかったって言うの。死にかけが危なかったんだ、って」
マリエちゃんは淡白に言った。焦げたような臭いが鼻を突いた。
——目をつけられたって言うの? 死にかけの龍に取って食われた
「……そんな感じのこと言うんだよ。でもホントにいい子で」
——頭オカシイんじゃないの、その人? 口を滑らせてお煎餅の入った缶々を投げつけられた。僕もイイコだよー、って。こんなDV人妻につき合ってますよー、って。
「私の代わりに死んだって泣くの。やりようなくてさ」
散らばった煎餅から、好きなものを選んで拾い上げる。細かい四角のザラメが引っついているやつだ。
「どう思う? 病んでるかな、やっぱ? 元々ソッチ系だったとか」
マリエちゃんが少し身を乗り出した。
「義理の姉妹になることはなくなってもさ、仲良くしてたいんだよ」
そんなことより、煎餅についた絨毯の毛をつまみ取る。身を引いたマリエちゃんが天井を見上げた。
——フリじゃないの?
「え?」
——死んだフリしてただけじゃないの、その龍
当然の要求でないなら、騙すためのとりあえずの我慢は効くだろう。
——分かってて、弟さんが身代わりになったとか
当然の要求でも受け入れない相手に、折れることはあるだろう。譲れないものがあるなら。
——婚約者の人が差し出したとか、それでも分かってて弟さんは飛び込んだ……なんて不謹慎か
言って、口に放り込んだザラメ煎餅は甘いより先に痛かった。