隣の芝生は青い

 今時どこにでも転がっていそうで、でもそうそうないようで……。
 やっぱりある複雑な家庭事情の人の話はよく聞かされる。

 フリーター時代に知り合ったブッチは不憫な子だった。
 ブッチの母親が彼を産んだのは17歳のときーー
 いわゆるデキ婚をしたが、父親が働かない系男子だったのですぐに離婚。母親は高校を中退して水商売に足を踏み入れた典型的なパターンだった。
「父親の顔、知らないんすよ」
 ブッチが9歳のとき、母親は再婚した。
 バツイチ子持ち同士の再婚――ブッチは母親と新しい父親と弟と、家族4人で暮らすことになった。
「安い団地っすよ。けっこう飛び降りとかあったんで……気持ち悪かったす。なんかその団地だけいっつも暗い感じで」
 ブッチは家に居心地の悪さを覚えていた。
 どこか新しい父親とその連れ子と、そして母親と……新しい父親に愛された人たちの居場所に思えたから。
「すぐ、二人目の弟が出来たんすよ」
 血の繋がりがない弟の下に、種違いの弟が出来てブッチは喜んだ。それでも幸せにはなれなかった。
「一人目……血い繋がってない方すね。なんか発達障害? だったらしくて。施設行きっす」
 初めのうちこそ月に一度、一人目の弟に家族で会いに行っていたが、気がつけば新しい父親は家に寄りつかなくなっていた。母親も……あまり帰らなくなった。
「自分の家じゃない感じがするんすよ。ホント誰かにお前ん家じゃないって言われてるみたいな」
 たまに帰って来る母親は、金だけを置いてすぐにまたどこかへ消えてゆく。
 薄い壁を突き抜けて、聞こえて来る隣近所の怒声や悲鳴がBGMだった。

   *

 母親のお下がり、ヤンキー仕様のレディースもの――膝下まで隠れる薄汚れたダボダボのパーカーで近所をウロつくブッチは、近所で噂になっていた。
 同情、軽蔑、無関心……周りの感情など気にかけている余裕はなかった。それでも、自分にとってよくないものが投げかけられている居心地の悪さは感じていた。
「一人目の弟とは、ほぼ絡みなかったんで……二人目の弟しかいないし、とりあえず腹は減るからなんとかしなきゃだし」
 コンビニしか知らない。パンかおにぎりかお菓子ぐらいしか食べられる状態にする術が分からない。
「学校も行かなくなってね。行っても心配されるかイジメられるだけっすから。弟ほっとくわけにもいかねえし」
 当時のブッチには同情の方が母親を否定されているような、自らの環境が不憫である事実を突きつけられているようなで、耐えられるものではなかった。
「家にいると弟が泣くんすよ」
 弟も居心地がよくなかったのか、家でじっとしていることさえ叶わなかった。
「仕方ねえから外連れて行くんすけど、行くとこねえし、金は落とすしで散々すよ……次、(母親が)いつ帰ってくっか分かんねえし。金落としたつったら殴られるし。最悪すよ」
 そのうち母親は、頻繁に見知らぬ男を家に連れ込むようになった。新しい父親は帰ってくることはなくなっていた。
「わけ分かんないオッサンにタバコ買いに行かされるんすけどね……まあ、ヤってたんじゃないすかね。しばらく帰ってくんな言われて。タバコのつり銭でなにが買えんだって」
 どうしようもないから――ブッチは弟を連れて一日中近所を歩き回った。
「公園行ってもね近所のオバハンにゴミみたいに見られるだけだし。家帰ったら帰ったで、外で遊べ言われるし……ああ、やっぱ俺ん家じゃないんだ、って」
 きっと行動範囲なんか半径なんキロの世界だったろう。それでも、弟を連れてサイズの合わないクロックスで歩き回って毎日ヘトヘトだった。

   *

 ブッチが中学生になって、母親は二度目の離婚を決意した。
 弟と離れたくないとブッチは必死に抵抗したが、どうしようもなかった。
 種違いの弟は、施設に入った切りの血の繋がらない弟とともに、二番目の父親が引き取って行った。
 ブッチは母親の両親の元に預けられた。母親は……どこにいるのか分からなくなった。
「じいちゃんばあちゃんの家なんですけど。やっぱ人ん家なんすよ。いていいのか、悪いのか。なんか……なんかがいるんすよ。その家の人っつーか」
 しばらくして、その家に従兄弟二人もやって来た。母親の妹が鬱病にかかって入院したのだ。韓国人の旦那は、何年も前に行方をくらましていたままだった。
 ブッチは幼い従兄弟の世話で、また学校に行く余裕を失った。
 高校に進学出来るはずもなく、保育士になる夢も抱いたと同時に諦めていた。
「従兄弟は一年ぐらいで出て行きましたね。叔母さん多少は持ち直したんで。でも俺はじいちゃんばあちゃんの家に厄介になるしかないっす」
 優し過ぎて、真面目で、人に気を使ってばかりで――ブッチは、僕が出会ったときにはもう救いようがなかった。
 理解力に乏しくて、伝達能力に欠ける。常にオドオドしていて、なんでもまともに受け取るから効率化が図れない。仕事を組み立てて行うことも出来ない。
 すぐにパニックを起こして逃げようとする。そのくせズレていて、笑ってはいけないようなことで平気で笑うから怒られる。
「そりゃ人に気ぃ使ってばっかの人間なりますよ!」
 僕にぶつけられても知らない。アイドルやってる十代の女子じゃあるまいし、大の男なんて誰も守ってくれない。
 出来上がったのは、(それが純粋な心配からでも)自分のいないところで自分のことを話題にされるのを極端に嫌う木偶の坊だった。
 それでも、ブッチは頑張っていた方だった。
 とにかく、どこかで正社員になることを目指していた。
 同世代の女の子と遊んだとき――その子がどうではなくて、最低限の社会的地位を得ないと結婚も、自分の家を持つことも叶わないと思ったからだ。
 あがいた。
 あがいて、あがいて――でも、まともな経歴もない。才能もない。資格の勉強も続かない。やっぱり木偶の坊だった。
「私さ、また結婚することになった。あと、あんたに妹出来たよ」
 急に連絡をよこした母親の言葉にブッチは、キレた。溜まりに溜まった感情をぶつけた。
 母親からは、女で産んでおけば水商売の手伝いがさせられたのに、と愚痴られただけだった。
 とりあえず身辺整理しよう――ブッチを連れて市役所に行って、彼が二番目の父親の戸籍に養子縁組されていることが分かった。
 もう何年も前から母親とは法的にも親子でなくなっていたのだ。やっぱり、じいちゃんばあちゃんの家も他人の家だった。
「一回、外で見かけましたよ。40過ぎてピンクのエクステつけたクソババア」
 世話になった祖父母を捨てるわけにもいかない。どこに行っても居場所のないブッチは人の家で遠慮しながら、免許を取って車を買うことを当面の目標にした。
 祖父母の買い物と通院、なにかの送り迎えがぐらいが出来れば、その家にいる資格が得られると思ったから。
「いづらいっすよ。自分ん家がないって辛いすよ」
 どこにいてもアウェー。誰かが、本来そこにあるべきなにかがいるような気がしてならない。
 ブッチは一つどころに留まれず、仕事も転々としていた。定職につけないのは能力以前に、自らを疎外感に包む悪いクセのせいもあると思った。
「一回、母親に連れられて二番目の弟と墓参り行ったことあるんすよ。誰の墓か聞いたら”あんたらのお兄ちゃんとお姉ちゃんのだよ”って言われてね。そのときは意味分かんなかったんすけど」
 ――まどろんだ牛乳が腐っていたような臭いがする。
「もうわけ分かんないすよ」
 誰かが失恋したとき。蜜月があったんだからいいじゃないかと人は慰める。こんなことになるくらいなら、初めからなにもない方がよかったと本人は嘆く――。
「いっそ、俺も流してくれてりゃよかったんすよ。だったら家なんて初めからないし」
 人生の途中で大病を患った人間は初めからなら諦めもつくだろうと言う。生まれつき難病の人間は普通だった時期があるだけマシだろうと思うーー
「なんかいるんすよ。そこにいていいのは俺じゃないんすよ」

<追記>
ご冥福をお祈り申しあげます。サヨウナラ。

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某

ヤレバデキルコモドキ科。口は災いの元が学べない。