「チーズフォンデュは悪魔の食べ物だ」
トンデモな主張をして来たのは、知り合いのムラカミだった。
ワキガの味がしてカレーパンは食べれないという人間に出会ったことはあるが、悪魔の食べ物とはこれいかに。いつの間にか空飛ぶスパゲッティ・モンスター教にでも入信していたのか。
ムラカミはふっと笑って、
「って、言うんだよ」
当時、4歳になったばかりの自分の娘を指差した。
どうやら家族で夕飯を囲んだとき、生まれて初めて見るチーズフォンデュにムラカミの娘がそんなことを言い出したらしかった。
それまではしゃいでいたのに、その嫌がり方は尋常ならざるものだったらしく、
「そんなの食べたらダメなんだよー」
曇った表情でそう言い出したことに始まり、ついには「悪魔」と口にしたという。
最初、ムラカミはチーズフォンデュが怖いのだと思った。見たことがないものだから、実際に食べればすぐに機嫌を直すだろうと。
「おかしなこと言うだろ? 下の子は全然平気なのにさ」
それもそうだが、晩飯にチーズフォンデュなるものが出てくるのが怖い。
僕のフォンデュデビューなど、ゆうに成人していた。確かに怖かった。なにをどうしていいやら……うん悪魔の食べ物だ。
「隅っこでずーっと突っ立って近づきもしねえの。いい加減、腹立ってきてさ」
グツグツ煮えたぎるドロドロの見た目も悪魔っぽい。下層階級では、まず夕飯としての選択肢にない選民意識的な部分も悪魔だ。正しく悪魔。
「食え! つって鍋に頭突っ込みたかったよ。いや、子供にそんなことしねえけどさ」
そんな発想がよぎるのが悪魔だわ。普段どんなプレ……躾の仕方をしているのか想像つく。
——乳製品が苦手とかじゃないの? においがキツかったとか。
ムラカミはチラっとキッチンの嫁さんを見やって、
「そんなことないと思うけどな」
初めは「ほら、パパ怒ってるよー」なんて笑っていた嫁さんも終いには語気を荒げたという。
ついには娘がギャン泣きして、奥さんはブチ切れモード全開に。経産婦でない女性とか男がドン引きするアレ。恐怖のヒートアップスパイラル。
このままいけば掌低クラスのビンタが飛ぶ勢いに、ムラカミの方がなだめる始末だったという。
人間変われば変わるものだ。スパンキングとかイラマ……結婚とは凄い。
「それから家でチーズフォンデュなくなったんだよ。俺、好きなのに」
ムラカミは意地の悪い顔でチラリ、娘を見やった。
娘はといえば、よく分からないのか聞こえないフリを決め込んでいるようだった。
——チーズフォンデュ……嫌いなの?
どことなく気になってムラカミの娘——スズカちゃん——に近寄った。
こういうとき、子供は”自分にとってよくないことが言われている”ことは分かるから、少し気を揉んだ部分があったのかもしれない。
彼女は、どこか不機嫌そうに手遊びをしながら押し黙っていた。
——チーズつけて食べるやつ。あんま好きじゃない……?
スズカちゃんはそっぽを向いたままだった。多分、よく知らない大人から急に話しかけられた緊張の方が大きかったのだろう。
「あー、ダメだよ。そいつそのことになると、なんも言わねえんだよ」
割って入ったムラカミを無視して、
——誰かに食べちゃダメって言われた?
うつむいているスズカちゃんを覗き込む。
不思議だったのだ。女の子は男の子に比べて成長が早い。
それにスズカちゃんは僕が見てきた限り、かなり大人びた子で理由もなく癇癪を起こすようには思えない。
我慢強い。自分の思うようにとか仕方なしではなく、自然と下の子の世話も見るお利口さん。言われなくてもやって、手は出し過ぎないでき過ぎちゃん——
——スズカちゃんは賢いね
「うん」
スズカちゃんは小さくうなづいた。
——チーズフォンデュは、なんで悪魔の食べ物なの?
また、彼女はなにも答えてくれなくなった。
——天使の食べ物は?
「知らない」
4歳の女の子の鼻の下にはナメクジが張った跡があった。季節の変わり目で風邪気味だったのだろう。ご機嫌ナナメなのはそのせいもあるかもしれない。
よく分からない一節が思い浮かんで、——子供の渇いた鼻水は天使のおやつ——失笑をこらえる。
——スズカちゃん大人だね。
「子供。見れば分かるでしょ」
戦慄が走った。言葉を奪われた。
つ、冷たい。成人女性に等しく冷たい……ッ! オジサン風邪引く。肺炎なる。ついでに胃潰瘍とかもなっちゃう。
なぜ、「大人だねー」なんて自分がほざいたのかもさることながら、ついに4歳児にまでバッサリいかれるこの不甲斐なさ……
「お前、人の子イジメんなよー」人の皮を被って、親のフリした性的倒錯者の声がする。
イヂメられてんのはコッチだ。いやさ、子供は子供を演じていることがあるにせよ、女の子は物心ついたときから女の子の皮を被った女なのかっ! という衝撃がですね。
「悪魔だから」
——え?
「……悪魔が食べるから悪魔のなんだよ」
——悪魔、いるの?
スズカちゃんは黙って大きくうなづいた。それから僕をの方を向いたから、
——悪魔どこ?
そう聞いた僕より早く、僕の後ろを指差した。
スズカちゃんが顔を向けたのは僕を超えて……
振り返るとムラカミの嫁さん、スズカちゃんのママが台所で忙しくしている背中があった。