「頭上禁止」
ある日、当時住んでいた自宅マンションの廊下でおかしな貼紙を見た。
共用部の廊下の壁に貼られたそれは、手前で右に曲がってすぐの部屋に住む僕には、わざわざ確認しなければいけないものだった。
それでも見てしまったのは、そのマンションの管理会社が少々口うるさかったからで……
「頭上禁止」——頭上注意、ならわかるが頭の上のなにを禁止するというのか。
添え書きもなにもない。ラミネート加工されたA4サイズの貼紙に天井でも剥がれてんのか、と——
「ポイ捨て注意」
見上げた先、天井には意味不明なもう一つの貼紙があった。
あぁ、そうかと思った。
(単語がテレコになっているんだ……)
貼紙を作った人間が慌てていたのか、おっちょこちょいな人なのか——
本来は「頭上注意」と「ポイ捨て禁止」なのだろう。「ポイ捨て注意」はまだわからないことはないが、「頭上禁止」とはこの状況で意味が通じない。
ふ、と疑問が過った。春雨が耳から耳を抜けたような感覚だった。
「ポイ捨て注意」を天井に貼りつけるときに違和感を感じなかったのだろうか……?
ゴチャ……ッ!
音のして振り返ると、近くの部屋から住人らしき男性が姿を現した。
右目に眼帯……禿頭の頂点からやや右後ろにズレて、そこにも大きなガーゼを乗せている。
初老だが足腰のしっかりした、どこか強面のオッサンだった。
少し迷って——視線を外し気味に会釈する。
「ポイ捨て注意」もう一度天井のそれを見ようとして、引っ張られるように後ろを向いたのはなんだったのか知れない。
丸まった背中を見せてこちらへ顔をくれていたオッサンは、なにやら言いたげに舌打ちした。
そのまま上着のポケットに手を突っ込むと、やや大袈裟な音を立てて階段を降りて行く。
ふとワイングラスを大きくしたような共用の灰皿が気になった。
「見るなや……」
背後で低い声がした。
今度に耳から抜けたのは、臭みの残るしらたきのような感覚だった。