魔法のセクハラ

 フリーター時代、あるところで時期を同じくしたアキヤマさんは、いつもぼんやりしていた。
 もう疎遠になって久しいが、ほかの従業員に話しかけられてもニコニコ笑っているだけで返答をしないことが多々あった。
 ――アキヤマさん……? 店長が聞いてますよ?
「へ? あ、あぁゴメンなさい。なんですか?」
 そんな感じを不思議に思っていた。

 ある日、片耳が聞こえないことを打ち明けられた。と、いうか逆ギレ気味でサラッと言われた。
 片耳に全ての音が入ってくるので、人ゴミや周囲が騒がしい中での会話は難しいときが多々あるという。
「君も、あんまり聞こえてない感じだよね」
 僕のは人の話を聞いていないだけだ。一緒にしないで欲しい。心構えの問題であって、機能に事欠かず不憫はない。
 アキヤマさんのものは生まれつきではないらしい。3歳頃までは聞こえていたような気もするという。
 片耳が聞こえないだけでは、障害者認定を受けられないそうで、なんだかなぁ……なんて思っていた。

   *

 そんなアキヤマさんがマンションを引き払い、一戸建てに移り住んだ辺りから妙な夢を見るようになったという。
 実際には夢かどうか分からないが、まだ小さい娘さんが夜な夜なアキヤマさんの傍でなにか呟いているというのだ。
 もちろん、アキヤマさんは娘に「どうしたの?」と聞こうとするが声が出ない。
 四つん這いの状態で決まって聞こえない方の耳元へブツブツなにやら言っている。
 初めは一人でトイレに行くのが怖いのだろうと思っていたが、どうも様子がおかしい。
 母親の顔も見ずに感情のない顔で聞こえない耳へ、一心不乱になにか語りかけている。
 夢なんだろうか、金縛りにでも遭っているのだろうか……そう思いもって、じっと娘の方を見ているそうな。
「そのときはね、聞こえるの。でも、なに言ってるのか分かんないんだよ」
 アキヤマさんは少し寂しそうだった。
 娘さんに昨日の夜はどうしたのか聞いても、本人は決まってなにも覚えていないらしい。
 怖くはない。怖くはないが、なんとなく気になるという。
 ――片耳が聞こえなくなった理由は?
 アキヤマさんはかぶりを振った。
 幼少期に、原因不明の高熱を患った後遺症とかではない。大人になって何度か診てもらったそうだが、依然として分からないままだという。

   *

 そんな話も忘れかけたある日、横並びに二人で作業をしていた。
 ふと、アキヤマさんの方を見る。
 なにか伝えるべきことがあったと思うのだが、細い首筋に発じょ……聞こえない方の耳がこちら側を向いている。話しかけてもダメかなあ、と考えた。
 ――アキヤマさん?
 ガッチャン、ガッチャン作業音が鳴っている。案の定、彼女は聞こえていない。
 わざわざ「聞こえる側」に周るのも、なんだかやらしい。
 ……なぜ、そんなことをしたのか分からない。
 分からないが、僕は無意識のうちアキヤマさんの耳に小指を突っ込んだ。
 よくてセクハラ、取り様によっては「聞こえてんの? テメェ?」とやっているようなものだ。
「ど、どしたの!?」
 アキヤマさんは当然、驚いた。飛び退きそうになって、その場に留まる。僕から距離を取ることを、意識的にためらった感があった。
(……さて、どうしよう)
 笑いに変える自信がない。上手い言いわけが思いつかない。
「あ、えぇ!?」
 および腰に聞こえない片耳を塞いで、離してを繰り返し、アキヤマさんはその手を見つめた。
「私、今どしたのって言ったとき、聞こえたよ! へ? えぇ!?」
 スーっと耳が抜けたという。
「なにしたの!? 嘘!?」
 ……知らん。分からん。
「え!? ホントなにしたの? 聞こえるよ!?」
 ――いや、なんとなく……。
 30年近く聞こえなかったはずの片耳が、僕が指を入れただけで聞こえるようになった。
 ……んな、アホな。

   *

 それから両耳が聞こえるようになったらしいアキヤマさんは妙にうるさく感じるし、慣れないからか平衡感覚が難しいと言っていた。
 時折、頭痛がするとも言っていたが、それもすぐに慣れたみたいだ。病院にも行かず過ごしすていた。
 なにどう聞かれたところで、僕には分からない。
 なんの断りもなく人の嫁さんの耳に指を突っ込んだ事実を咎められないか、そちらの方が心配だった。
 耳が聞こえるようになってからというもの、娘さんの奇怪な行動、夢のようなものも見なくなったという。
 ――娘さんが助けてくれたんですよ、多分。
 そういう風に言うしかなかった。

   *

「ほら、こっち! この人!」
 後日、アキヤマさんは休日に旦那さんの手を引っ張り、わざわざ来店してくれた。
 ――いや、セクハラしただけですから。
 旦那さんには、半笑いでそう言うしかなかった。

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ヤレバデキルコモドキ科。口は災いの元が学べない。
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