「あいつは、なにか変な宗教に入っている」
ある時期、冗談混じりに当時の同僚のそんな噂話を耳にした。
我が国では宗教の自由が認められている。
その噂が嘘であれ、真実であれ好きにすればいい。
ただし、僕を勧誘してこなければ、の話だ。
で、やっぱり誘われる。
それも見事に狙い撃ち。
……そういう星のもとに生まれたのだろう。きっと。
きっかけは、今一覚えていない。が、おそらく僕がいつも通りテキトーこいてたことが原因だと思う。
「あなたの考えは間違っている!」
と、急に怒り出したのだ。顔を真っ赤にして。
新興宗教ならどうしたものかと身構えたが、なんのことはない。多数派の敬虔なクリスチャンだった。
なによりお名前がマリアで、もはやパーフェクト。一家揃って熱心、生まれ落ちて信者決定エリートパターン。
誰がどう見ても巨乳ちゃんだったので、怒りに震えてブルンブルン揺れる二つのダンシングボールを見ていた。
「私、悲しいです!」
乳を視姦されたことが悲しいのか、僕という存在そのものかは知らない。
「あまり自分の価値観を他人に押しつけないように」やたらめったら揺れるオッペーをメトロノームに追いかけてやんわり断りを入れる。
結果、集会的なものに強制参加させられた。
*
「どうです? 考え変わりましたか?」
嬉しげに聞かれたところで、答えはもちろん「ノー」
単にヒマで、まあカワイイ女の子の誘いなら、と興味本位で参加しただけだ。
ロウソクの光が灯す暗闇の中、見知らぬ外人が粛々と聖書を読み上げた程度で矯正の効くほど、僕は甘くない。
——いや、全然。
そう言う僕にマリアちゃんは、これでもかと悲しげな表情を浮かべた。知ったことではない。
欧米諸国ならともかく、日本で宗教を絶対的な存在として生活の基盤に置く人間など、僕は関わりを持ちたくない。
うなだれ、タメ息ついて、またうなだれて……
バッグの中のイヤホンに絡まる知恵の輪ぐらいややこしい人相手に無駄な努力だ。
○○してくれるなら改宗してもいいよ、とかニヤついてみたり——
「分かった。でもその変わり男女の機微を知ろう! 絶対、考え変わるから!」などと、こちら側もさも人のタメを思っている風を装いたくなる。
「なに、考えてるんですか?」
そんなこと言われても……言えない。
悪魔に取り憑かれたフリして***して、「主のお与えになった試練なのですか? 主よお助けください」とか、諦めちゃう修道女姿の君を妄想――
マリアちゃんは涙目になっていた。
萌える。人差し指一本でイタズラしたい。
「悲しい人」
あ、それ止めて。なに気に傷つく。
それからしばらく黙り込んでいたマリアちゃんだったが、覚悟を決めたように、
「証拠を見せる」
そう胸を張った。
いわゆる聖痕が、現れるときがあると言うのだ。
確かにそれは見たい。純粋に真近で見れるものであれば、見せてもらうだろう。
が、現れたところで、僕の思想になんら変わりはない。自傷行為はほどほどにーー僕は、その場をあとにした。
*
数日後、出勤早々僕の元へ走り込んでくるマリアちゃんの姿が見えた。
「ほら、これ!」
目一杯、広げた手の平に赤く滲んで痛々しいなにかがある。まさかトンボを捕まえたわけでもあるまい。
なるほど、十字架に見えなくもないそれは聖痕と言える。
——自分で切ったの?
手を覗き込んで上目に僕がたずねると、マリアちゃんは眉根を寄せた。無言でなおも僕へ向けて手の平を強く差し出す。
危ない。色んな意味で。メンヘラの相手なんかゴメンだ。黙って背中を向けたが、マリアちゃんは一向に引く気配はなかった。
聖痕は、手首に出るのが本物だと耳にしたことがある。キリストは手の平になど釘を打ち込まれていないとかどうとか――
——手首が本物なんでしょ? でも、リストカットは止めようね。
言うや否や、マリアちゃんは拳を握りしめると小さく震え出した。
谷間に現れた聖痕ならいくらでも見るが……そんなことを言おうものなら、リアルに平手打ちされかねない。……アリだな。
着替えながらチラリ冷たい視線を送ると、マリアちゃんはこれでもかと目を充血させていた。
(泣くとか勘弁……)
涙袋があろうが、なかろうがすぐに溢れ、ツーと流れ伝う一縷は色濃く――
赤。
紛れもない赤。
——血、出てるよ?!
さすがに焦って声を上げた僕に、ハッとしたようなマリアちゃんは指の腹で目元を拭った。
光の差したように、マリアちゃんの顔が明るさを取り戻す。
「ほらぁ!!」
嬉しそうに、今度は指を突き出す彼女の意図するところは全く分からない。
——なに……? 手品? メイク落ちたの?
「マリア様が流した涙ですよ! あ、マリアって言ってもマリアのことじゃなくて……」
血の涙とはよく言ったもの。
元来、涙とは血液の赤い成分だけが濾されたものらしいが、あまりにも強い信仰心は人体の不思議を超越した。
マリア様がお流しになった涙がマリアの目から流れて、洗礼どうたらこうたら……
どうでもいいが、色々と心配でならない。
コイツ、一人称が自分の下の名前だったのか。普段、「私」だったのに。
——今なら、パン食べれば肉になるんじゃない?
「そうですよね! なりますよ!! あ、でもパンない……」
ウロウロと嬉しそうに、困ったようにあたりを見回すマリアちゃんに、全てにおいて疑いの気持ちはなさそうで。
——パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない……
まさしくオカルト。目から血を流す女を目の前にしてもはやかける言葉も見つからず、話は次第にそれて……
「ハ? お菓子?」
マリアちゃんはマリアちゃんであって、マリー・アントワネットのような女ではなかったらしい。まあ、かの発言も言ってないらしいが。
ただ、間違いなくマリア様ではない。
それでも——
全世界に見つめられて夜通し遊んだ女と対をなすなら、処女受胎でもしてくれたら諦めようかと思う。
いや、彼女なら想像妊娠ぐらい軽くしてしまうだろう……
作れるハズのない僕の子を宿したのなら、そのときは入信しようと思う。