とある飲食店で、小遣い稼ぎをしていたときのことだ。
僕は、深夜に出勤し三時間ほど閉店後の後片付けや一部の開店準備を行うだけの存在だった。実質、「お店」とはあまり関わりがない。
ある日、ヤナギさんという女の子が、閉店後のシフトにもいわゆる「通し」で入ることを聞かされた。なにか用入りらしい。
*
水浸しにした床をデッキブラシでゴシゴシやりながら、ヤナギさんへ適当に仕事を教えていた。
基本的に二人一組でやる仕事だが、誰とでも会話はない。べつにこれから必ずしもヤナギさんとペアを組むわけでなし、どうでもよかった。
二手に分かれて掃除していて、手を止め窓に目をやっている彼女に気づいた。
正直、汚れ仕事だし、面倒をわざわざ別枠化して人を雇っているような時間帯だ。同じ店の連中からも、冷ややかな目で見られている。
お店の開いている間にメインを張っている女の子が、すぐ嫌になって仕方ないと思った。
ヤナギさんがニッコリ笑った。デッキブラシ片手に、もう片方で窓の先に手を振る。
そこから何事もなかったかように、その手を掃除へ戻した。
(嫌になったわけじゃなかったのか)
彼女の見ていた窓の先は、ガラス越しに駐車場が見えるだけだ。僕には、なにもないように思えた。
気にせず、僕も止めていた手を再び動かし始めた。
大方、迎えにきた彼氏かなにかだろうと思ったからだ。
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「あのね」
仕上げにホースで汚水を排水溝に向かって流していたとき、そばで見ていたヤナギさんが口を開いた。
「さっきね。窓の向こうに子供がいたんですよ」
ヤナギさんへ一瞥をやったが、すぐにホースに目を戻した。ホースの先を潰して水を分ける。
——それで、手を振ってたんですか?
「知らない男の子だったんですけど……なにやってたんだろ? こんな時間に一人で」
店は深夜2時に閉店する。そこからなんやかや——掃除をしていたときは3時近い。真夜中だ。
駐車場に残っていた客の子供が遊んでいただけだじゃ? そう言う僕にヤナギさんは、へばりつくようにしてそばで、
「そう思って駐車場一通り見たんですけど——私たちのバイクしか」
店の立地的に近所の子供が、とは考え難い。その店は国道沿いの飲食店で住宅街からは離れている。
周りに立ち並ぶのも同じような飲食店や車屋、本屋、ブティックホテル……
——幽霊でも見たんじゃないですか?
「えぇ……そんな怖いこといわないでくださいよ」
ヤナギさんの鮮やかな小麦色に乗っかったどんぐり眼が開いた。実にイヂワルしたい気分だ。
デッキブラシであんなことやこ……
そこから「霊感あるんですか?」、「ないです」のお決まりのやり取りがあった。
*
「お疲れ様です。また、お願いしますね」
仕事を終え、駐車場でバイクに腰かけ一服していると、ヤナギさんも店を出てきた。
煙を吐きながら僕が無言で会釈すると、ヤナギさんは暗闇でも分かるほどニッコリ笑った。
どうして、こう愛想よくできるのだろうか。愛想なさすぎの夜の野良猫と、形容される僕には分からない。
「あっ!」
不満をかき消す声があった。
「ちょっと、あれ見てください!」ヤナギさんが僕の肩を揺する。
……触んな。発情する。じゃなくて危ない、君が——いやさ、タバコが、ほら、アレ。
「あれですよ、あれほら!」
どれ?
暗闇の中、よくよく見るとかすかに動く何かがいる。
一定の動きをしているようにも見えるそれは、影そのものというか——手を振っているようにも思えた。
ただ、遠くてよく分からない。左手側は国道を走る車のヘッドライトと街頭の光が照らしているが向かい側はとても見えない。
——なんですか?
「さっき言ってた男の子ですよ!」
バイクから腰を降ろす。瞬間、その影は奥へと走り去った、ように見えた。
幼子が、一生懸命に走る不恰好な姿。それよりもどこか不自然でふにゃけていて――
——よく、さっきの子だって分かりましたね。僕、真っ暗で男の子かどうかも。
ヤナギさんの目が丸くなって泳いだ。ような気がした。「このあと、僕とホテル行って終わりですよ」と、言われたみたいに。
「私、目……凄く悪いんですよ。なんで真っ暗なのにあんなハッキリ見えたんですか?!」
……知らんがな。
僕はなにも答えず、ただ顔を見合わせますだけの時間が少し。
早く帰った方がいいんじゃ、そう勧める僕にヤナギさんはうなづき、フルフェイスを被った。
——250ccはあるだろうバイクが、うなりを上げる。煙を吐き出し彼女の姿はすぐに見えなくなった。
*
翌々日、ヤナギさんとペアの予定だったが、現われたのは別の人間だった。
「コレらしいですよ」
代わりは、手で腹を大きくなぞった。
少しは驚いたが、人様の事情なんぞどうでもいい。僕には色々と無縁な話だ。
しばらくして、ペアになったヤナギさんはどこか柔らかい印象だった。
——大丈夫なんですか? 仕事して差し障りないんですか?
「ギリギリまで働いてたいんです」
ヤナギさんはデッキブラシ片手に、フゥフゥ汗をかいていた。笑みがこぼれている印象だった。
——どっち(性別)ですか?
なぜ、そんなことを聞いたのか分からない。本当に、ただなんとなく口を突いた。
「まだ分かりませんよ」
軽く笑うヤナギさんに、望まれない子でないことに確信を得てなんだか安心した。
この前、駐車場で見たのは生まれてくる彼女の子供じゃないのか? よからぬ妄想に足りない頭を埋めたときだった。
「でも、男の子だと思うんです」
彼女が当たり前のように言ったのは。
——生まれる前に、ママに会いにきたんですかね?
手を止め、こちらへ笑顔をくれたヤナギさんの目に僕はどう映っていたろう。
彼女はなにも言わず、デッキブラシで床をこすることを再開した。
*
気づけば彼女は店を辞めていて、そのあとしばらくして僕も辞めた。
ヤナギさんは、元気な男の子を産んだらしい。
話を耳にしただけで、顔を合わすこともなかったから、彼女たちのそれからを僕は知らない。
きっと、どこかで幸せにやっているだろう。
あのとき見た影が、産まれてくる子だったとして――
それが僕とヤナギさんの間のものでないことなど、ハナから分かり切っていた話だ。
それなら、ママにだけ見えていれば済む話だ。ママにだけ会いにくればいい。
待ちきれなかったのなら――
せめて無関係でも”できる”人に見られて欲しい。
子供は、お構いなしに無邪気で残酷だ。