子供のころというのは、不可思議な体験を多くする。
記憶は曲がっているのかもしれない。なにしろ古いうえに、そもそもが頼りない時期だ。でも、不思議と鮮明に覚えていたりもする。
幼稚園の年中か、それぐらいだったと思う。一人、家の前で遊んでいた。
「ミドリマン」
僕は近所の子と仲良くなるまで、架空の怪物相手に日々戦っていた。
どこから湧いて出た発想なのか……ただ、緑色が好きなだけだったと思う。
いくら想像力豊かな幼年期といっても、そこは幼児。全身が緑色ぐらいの設定しかなかった。
そんな怪物は見えない、触ることもできない。この世に存在しないことは分かっていた。
*
ある日、家の前でいつものようにミドリマンと戦っていた。
話の筋もなにもないから、唐突な戦闘シーンはもちろん。ただ、僕がへなちょこパンチを繰り出すだけ——
(本物が出たらな……)
毎度ながら、すぐに飽きて家の中へ入ろうとした。
……いる。
三件隣りの空き家に全身緑色の人……のようなものがいた。
空き家の塀から半身を乗り出し、覗くようにこちらをうかがっている。
——そいつはこちらが気づくと、のっそり動き出した。
緑色したセメントか溶岩を被っているようなーー波打つ全身を引きずり近づいてくる。顔の部分にポカリと二つ、目のように穴が空いていた。
(どうしよう……本物のミドリマンだ)
足はすくみ、全身は震え、声は出ず。
——ッあ!
瞬間、そいつは無力な小僧へ向かって猛然と走り始めた。
家なら大丈夫! 根拠のない幼い確信も、このときばかりは、やや揺らいだ。
けれど、不安には目を背けた。それしか知らない。安全な場所は、家としか分からない。望んだのは僕だ。でも実際に現れたあとのことなんて知りもしない。
得体の知れない怪物へも背を向け、家の中へ飛び込む。
玄関を開け、カギもかけず、すぐにコタツへ潜り込んだ。
(ミドリマンがきたらどうしよう……)
(ミドリマンがきたらどうしよう……)
光が差した。声にならない声を上げた。
「アンタなにしてんの?」
コタツ布団をめくって、のぞき込んだのは母だった。
僕は母に泣きつき、必死で説明したが要領を得ない。まあ大人なら、普通は信用しないだろう。
*
普段なら喜怒哀楽の激しい幼児のこと。夕食時には忘れてケロっとしているはずだが、その日に限って頭から離れない。
いつもなら夜の9時には眠たくなるはずなのに、中々寝つけない。おそらく生まれて初めて0時近くまで起きていた。
眠れないと泣いていた覚えがある。
それでも知らぬ間に意識は遠のいた。今なら多分、一晩中起きているだろう。
——妙な息苦しさを覚える。
半分、眠ったまま寝返りを打とうとするが身体が思うように動かない。
ぼんやりと薄目を開けると暗闇の中で豆電球に照らされてなにかがいた。
ミドリマンだった。
いや、正確にいうと、色まではハッキリと分からない。
それでも下に向かって流れるなにかドロドロとしたものをその身にまとった大きな影が、僕の口を手で押さえつけているのは認識できた。
手の感触は柔らかく、暖かくも冷たくもない……ゴツゴツした、手の皮がブ厚くなった大人の手のだった。
——ッ! ……っ、っ!
口を塞がれた息苦しさで必死にもがく。一瞬にして波打つ全身が動きを止め、一気に固体化した。
同時に迫りくる近づけられた顔に、得も言われぬ恐怖が押し寄せる。
(怒ってる)
そう思った。
グッと込められた一際強い力に、子供ながら身の危険を覚える。
(死ぬ!)
目をつむりながら腕をブンブン振り回す。ただ、空を切っていた。
現実に戦うことを夢見ていた。ミドリマンと。
夢の中か現実か分からずに、そもそも戦い方なんて分かりっこない。
ワンパンで済むはずなのに。やられてくれない。
意識が遠のく寸前。突然、息ができた。
必死で息を吸い込み、止まらなくなったしゃっくりとともに泣き喚いていて、隣で寝ていた母が目を覚ました。
「怖い夢を見た」
母には、それで片づけられたように思う。
実際、そうだったのかもしれない。
*
発達心理学とやらで言うところのImaginary Companions——空想上の友達——だったのかもしれない。
子どもの見てはいけないものを見て、ごまかしの効くまで父に抑えられていただけかもしれない。
子どもの想像力は、時に夢を現に幻を見せる。
僕のたくましい妄想が、なにかを見せたのか。
”なにか”がそうなってしまったのか。
今となっては分からない。
ただ友達とはかけ離れた存在だった。