あやふやなヒト

 いくら奇麗事を並べたところで、普通、奇妙なものに視線を奪われたり、善し悪しはべつにして特別な感情を抱く。

 電車に揺られているとき、通勤ラッシュで車内に大量の人がなだれ込んできた。
 大型の駅ともなれば、大都会の比でなくてもそれなりにはゴッタ返す。
 押しやられて窓際にいると、向かい合わせに立ったのは背筋を伸ばして朝からスーツ姿もパシリと決まったいかにも紳士な初老殿。

 ――すぐに額の右側に違和感を感じた。
 大きなコブに鏡餅のごとく、段を重ねた小さなコブが幾重にも連なっている。
 あまり見ては失礼だと思いながらも、視線は釘付けにされた。
(そういう病気だろうか……)
 ふっ、と紳士と目が合った。こちらが視線を逸らせずにいて、相手は心得たように微笑んでいた。
 ハタと気づいたように窓の外へ顔をやって、なんだか悪い気のして周りを見渡した。共犯者が欲しかったのかもしれない。
 僕以外の乗客で、紳士に注目しているような人は誰一人いなかった。自らの矮小に身を縮める。
 そんなわけもないのに、できるだけ身体を小さくして紳士から自分の存在が気づかれないようになるべく努めていて、電車が停まる。目的地に着いた。
 紳士も開く扉に足を向けたので降りるのかと思えば、どうやら降りる人間に気遣って前に進んだだけのようだった。
 よくできた人だと感心しながら、駅に降り立……

「おい」
 声の先、これでもかというぐらい激昂した顔で、僕をねめつけている紳士がいた。
 血管を浮き出たせ、額の鏡餅まで染め上がり、顔面は真っ赤になっている。
――え……。
 言葉を詰まらせ、一瞬、目を伏せる。と、もう紳士はいなかった。
 降り立った場所で突っ立ている僕を迷惑そうに避けながら、大勢が乗降する。電車は去った。

   *

 あの紳士はなんだったのだろうか? 用事も済ませ、あらためて思い巡らせていた。
 駅を降りた土地にもう用はなかったので、駅へと引き返している道中だった。
 交差点に差しかかる。
 赤信号が目に入って、紳士の真っ赤な顔が思い出された。
 小学生――
 4、5年生ぐらいの男の子に見えた。向こうから信号を無視して小走りに横断歩道を渡ろうとしている。
 辺りは車通りが多く危ない。気の荒いバスやタクシーの運ちゃんも多い。
 ……そんなことより、タバコを吸いながら走ってくる。
 路上喫煙にいち早く罰金つきの条例を敷いたうるさい地域で、明らかに児童にくくられる背格好の男児が、だ。
 距離があってよくは分からないが、どこか薄汚れている気のする。地元の悪ガキだろうか? 辺りの地域事情はどうだったろうか……。
 悠長に考えていて、もう男の子は横断歩道へ飛び出していた。
 車とバイクが矢継ぎ早に行き交っている。さすがに危ない。どんぶり勘定でしか予想のつかない悪い結果が、つま先から駆け上がる。
 ――車は急に止まれない。
 急ブレーキの音もない。クラクション一つ聞こえない。
 反射的にブレーキを踏む車があってもいいハズだ。それなのに。
 予測すべきも降って湧いたようなも、とかく危険などないといわんばかりに車は走る。男の子も前しか見ていない。
 フードを目深にした赤いパーカー。
 男の子が僕の右隣りを走り抜けて、くゆらした煙は立ち消え、粘りつく溶けたカラメルのようなにおいが残った。

 ――視覚障碍者用の音楽が鳴る。人々が一斉に歩を進める。
 また、取り残されるように立ち尽くした僕は、しばらく動けないでいた。
 おかしい。
 車両も男の子も、双方に避けようとする意志のないような不可思議があった。
 避けなくて済むような対処があったようにも、僕の目には映らなかった。
 それに、タバコを押さえていた手が男児にしてはあまりに大きく、大人の手ともつかない――

 なにかまだらにシリコンでも注入したような、そんなブクブクと膨れ上がった手だった。

   *

 自宅の最寄り駅に着き、かかってきた電話に駅近くのコンビニで足を止めていた。
 通話していて、車イスの女性とそれを押す二人の男性が目に入る。
 成熟した上半身に不釣合いな下半身――。
 車イスの女性のあまりにか細いそれに、きっと産まれつき足が不自由なのだろうと感じた。
 片方ずつハンドルを握って、車イスを押す男性たちは双子にも見える。
 笑顔の三人を見て、兄弟か、三角関係か、と軽い妄想を繰り広げていて、電話の向こうはおざなりになっていた。それから、すぐに通話は終えた。

 三人の背中を見送ったとき。息を飲んだ。
 車イスを押す二人の上半身が繋がっている。癒着というよりは、むしろ割れた……分裂したような印象だった。
 どこか景色が通り抜けていそうな、溶け込んでいそうな透けて見える感覚をその後ろ姿に覚える。瞬きした次に、その姿を見失った。

「兄ちゃん、兄ちゃん」
 生返事した僕のすぐかたわらに、作業着姿のオッサンが立っていた。
「久しぶりや、なんしてんねん?」
 ニンマリ笑いながら言ったのは、かつての職場の先輩だった。
――お久しぶりです……。
 遅れて挨拶した僕に先輩は少し目を大きくしたあとで、作ったような笑顔になった。
「ボケーっと突っ立ってからに、顔色悪いで。どないかしたんか?」
 彼女がほかの男と歩いているところでも見たのかと笑う先輩に、たった今見た車イスの件を話した。勢いだった。

「白昼夢っちゅうやつやな。どうせロクに寝てへんねやろ」
 おかしな薬でもやってるんじゃないのか? お前ならやっていて不思議じゃあない。先輩は笑った。
 僕は、今日幾度となく不思議な光景に出会ったコト。それらが知らぬ間に消えてゆき見失うコトを言い訳のように口走ったが、どこか要領を得ない。
「シャブは大概にせーよ」
 僕の肩を叩いて、苦笑いを噛んだオッサンの顔が近づく。作業着に染みついたタバコの残り香が、鼻をかすめた。
「なんかしら障碍持った人ぐらいようさん(たくさん)いはるわ。ワシらかて歳いったら脳梗塞でもバーンとやって、時期ビッコ引いて歩かなならんようなことがあるかもしれん。せやろ? たまたまや」
 そう言われれば、たまたま多く出くわしただけのような気もする。少しばかり平伏しかねて、そうですねと口先は同調しかけて、
「でもな」
 石臼で引いたような声がした。
「ワシの娘婿がなんや霊感があるとかいうて、それを商売にしとるんやけどな」
 ――不可解な間。
「なんや幽霊いうのんは自分が死んだと気づいてないときは、エライけったいな形で出てきよるらしいわ」
――それは、どういう……
「例えば指がやたら多いとかな。一本少ないとか、手の大きさがとんでもないとかな。とにかく、どっかおかしいんやと」
 まあ、気にすんな、僕の肩を揉むようにした手を少しだけ名残惜しんだ先輩がコンビニへの店内へ入っていく。
 それを背中に感じて、僕は不安をぬぐい切れなかった。

 先輩に男児の手が大きかったコトは、話していない。

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某

ヤレバデキルコモドキ科。口は災いの元が学べない。
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