ひっくり返る

 ——京都はどうですか?
 当時の同僚——主婦パートのヒラオカさん——に当たり障りのないことをたずねたときのことだ。
「う〜ん。おかしなところやなと思いました」
 変に感染った関西弁が答えて、僕は苦笑した。
 国は四国の田舎、彼女は初めて目にしたゴキブリをカブトムシだと思って追いかけたらしい。天然の湧き水で育ったような人だ。
——まあ、おかしなところですよ色々と
 僕が呼応して、ヒラオカさんはコクコクと頷いた。

   *

 ヒラオカさんの旦那さんは同郷の人らしかった。進学を機に里を離れ、就職で京都に移り住んだ彼の元へ結婚を機に着いてきた形だ。
 二人が愛の巣に選んだのは新築の建て売りが並ぶ新興住宅地の一件。昔から地元の人間には工業団地として有名だった一角だ。
 そのころには大分とマシにはなっていたが、昔は空気も悪けりゃガラも悪い、あまりよくない風に思われている場所だった。

 まだ、子供さんが小さくパートにも出ていないころ、ベビーカーを押してヒラオカさんは散歩がてら近所を歩いて見て回っていたという。
 当時はまだまだ更地も多く、建設中や買い手のついていない家もままあった。
 別段、郷里が恋しくなったわけでも、産後鬱にかかったわけでもないが、どこかうら寂しい——
 家々の間隔は狭くまばらに空きのある風景は、自分が生まれ育った土地とはどこか毛色の違う”途切れと静けさ”を感じる。

 ——前方に老婆が見えた
 いやに小柄でまん丸く、それでいて角張ったような硬い印象だったという。
(子供のことで声をかけられそう)
 そう思った。
 カワイイわねー、とか。おいくつなの? とか。
 きっと、ずっと昔からここら辺りに住まう人で、散歩しているのだとヒラオカさんは老婆に思った。

 …………。

 なにやらブツブツ言っている。老婆が。
 いずれすれ違おうハズなのに歩みを止めた老婆が、途端にボツボツと言葉を棄てている。
 ヒラオカさんも足を止めた。
(子供のことでなにか文句をいわれる)
 そう考えた。
 京都の人は裏表がある。持って回った嫌味をいう。腹黒い——
 そんな話をよく耳にしていたから、自然と気構えた。
 引き返そうか……? いや、それはちょっと……立ち止まってはダメだ。
 子供を抱えたい気持ちを押し殺して、ベビーカーの取っ手を固く握り締めた。

 ———— ッ———— ミュ……く———— ぅ————

 老婆のブツブツはどこかリズムに乗ったまとまりがあって、それは明らかにこちらへ向けられている。

 できるだけ前を見て——
 目線は遠くに——
 勇足にならぬよう——

「しょうもないことすな! 早よ、いね!」

 酢で〆たような身の背筋を張って、ヒラオカさんは老婆に目を奪われていた。
 すれ違い様に怒声が響き反射的に謝りそうになった。けれど、それも効かなかった。
 子供は泣いてはいなかった。
 下顎に梅干しでもこさえようというのか。ギッと力んだ老婆の姿に、驚き、恐れ、そして腹が立った。
 ニチャ……ッ、と老婆が笑った。
 どこか組み木がパカリ外れたような笑い方だった。
 ——ベビーカーの中にしわがれた手が伸びて、とっさに母親の手がフタをした。

 そこまできてようやく母親は、自分の耳がなにかに塞がれていることに気づく。
 恐る恐る後ろを見やると、見知らぬ初老の男がいた。
 男はヒラオカさんの両耳をゴツイ手で塞いだまま老婆を睨めつけている。

「アンタよそからきた人か?」
 ひょこひょこと老婆が立ち去ったあとで、やっとヒラオカさんの耳から手を離してくれた男がいう。
 耳がまだ後ろにへばりついているような感覚と、耳鳴りに似た内耳の様子を気にしながら曖昧に返事をする。ただ、圧倒されていた。
 今度はヒラオカさんの両肩を掴んだ男が言う。
「ええか、今度あんなことがあったらワーッ!  いうて逃げるんやぞ。分かったな?」
 コクリ頷いたヒラオカさんに男は続ける。
「意地の悪いババアでな。ロクな死に方せんわあんなもん」
「あの……」
「ここら辺は最近、無理矢理に土地をひっくり返したからおかしなことになっとる。アンタら守ってくれはる神さんひっぺがそうとしとんや」
 男はベビーカーの中を覗いて、
「この子はここら辺で産まれた子なら大丈夫や」
 そうつけ加えると大きく喉を鳴らし、唾を吐き捨て去って行ったという。

   *

「そんなことあって、なんか変なトコだなって」
 ヒラオカさんは話をしている間、ずっと僕の目を見ていた。
——それは……怖いですね。その爺さんも婆さんも
「でも、お婆さんの方がなにかこう悪いことしようとしてたんですよね?」
 純な瞳に突かれて、僕はそれを避けるように首を捻っていた。
——実はその爺さんが悪いコトしてたとか? ……助けるフリして

悪魔! と声がして、ヒラオカさんは耳を塞いでいた。

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ヤレバデキルコモドキ科。口は災いの元が学べない。
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