『ソレ』

 土橋さんが以前住んでいたアパートは十畳ほどの1R。
 部屋には本がいっぱいで、近いうちに引っ越したいと考えていたそうだ。
 土橋さんが得体の知らない、呼び方も分からない、『ソレ』としか言いようのない何かを見たことをきっかけに、七年も住んだ1ルーム生活に幕を下ろせたという。

 寒い日だった。
 土橋さんは長風呂するタイプだった。その時も湯船に浸かりながら小説を読んでいた。
 ユニットバスは狭いが、慣れればどうってことはない。
 ただその日はやけに家鳴りが多かったという。
 一時間は浸かっていただろうか、土橋さんは体を洗うとユニットバスから出た。
 蛍光灯が切れる寸前のように点滅を繰り返す。
 光が収縮し、暗闇が部屋を覆った。
 ぼうっと、ゆっくり豆電球だけが灯る。
 部屋の隅にうずくまる、なにかがいた。
「なんつうの、一応、人の形っぽいんだよ。長ぁい長ぁい髪から顔が見えた。顔は昆虫のセミに似てた。両目がうんと離れてた。口のあたりがぐじゅぐじゅしてた……」
 ソレはじっと床を見つめていたという。
 土橋さんは体を拭くこともできないまま、ただただ目が離せなかった。
 頭が痺れるような恐怖がじっくりと湧きあがってきたという。
 人外であることは明らかだった。
 ソレの動きは緩慢であったが、しかし確かに土橋さんの方へ向いてきた。
 線路に縛りつけられているような、崖の上を歩かされているような、致命的な危機感を土橋さんは抱いたそうだ。
 実際、ソレに喋られたら土橋さんは意識を手放す予感があった。
 気絶した自分にソレは一体何をしでかすのだろう?
 土橋さんは叫んだ。
「それがさ、思いつく言葉って案外ないんだよ。俺が思いついたの、プロレスラーの台詞。別に威勢がいいわけじゃなくて、ただ頭に残ってたやつ」
 こう叫んだ。
「またぐなコラッ! またぐな、またぐなよ、またぐな、またぐなよ、絶対に!」
 私は首を捻った。
 けれどソレは煙のように消え去った。土橋さんの迫力に恐れをなしたのかもしれないし、偶然かもしれない。あるいは全て土橋さんの幻覚だったのかもしれない。
 私にはわからない。

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別府

管理人です。ビックリしたときのリアクションは子供みたいです。