今までも一度も考えたことないんだけど

西山明子は去年飛び降り自殺を図ったという。
「もう面倒くさくて……」
当時西山は結婚をしていたが、それ以外に恋愛中の男が一人、セフレが一人いたという。
「誰にもバレてなかったんだけど、気持ちがグチャグチャで、精算したかったのもかもしれないなぁ」
目に付いた五階建てのRCマンションの屋上に出ていた。パークマンション市谷という名前だった。
「寝起きみたいなふらふらした頭で動いてた。現実感なんかなくて」
金網をよじ登り、柵の向こう側、一歩先には奈落の底。
「死にたい、なんてそれまで今までも一度も考えたことないんだけど」
とくに覚悟を決めるでもなく、倒れるように宙に身を投げた。
一瞬、内臓がひっくりかえるような浮遊感を味わった。
すぐに気を失った。

一命はとりとめたが、下半身に後遺症は残った。
退院後は旦那がかいがいしく世話を焼いてくれ、絶望をゆっくりと溶かしてくれた。
旦那の書斎から、催眠術の本が見つかったのは一年後だった。
挟まったレシートから、購入日は当時のセフレが祝ってくれた西山の誕生日だった。
一緒に閉まってあった日記は開かなかったという。
「けれど彼を問い詰めたい気持ちは沸いてこないの。それどころか申し訳ない気持ちでいっぱいなの」
別れ間際、西山は震えそうな小声で聞いてきた。まるで締め付けてくる喉に抵抗しているようなか細い声だった。
「あのさ、自分が今も催眠術にかかっているか判断できる方法って知らない?」
知らない、と私は答えた。

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別府

管理人です。ビックリしたときのリアクションは子供みたいです。

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