内村さんが子供の頃、近所には宗教に熱心なオバサンがいた。
その人の家からは昼夜問わず、不思議なお経のようなものが聞こえてきた。
近所には独身寮が多かったせいで、子供は少なかったそうだ。
それゆえ周囲の大人たちからは可愛がられて育ったという。宗教オバサンも例にもれず、内村さんを見かけるとわざわざ家からお饅頭を持ってきてくれたそうだ。
「前世で悪いことしたもんだから子供できなくてねぇ」
オバサンは度々『前世』という単語をもちだした。
まだ内村さんには難しい言葉だったので理解できなかったが、それでもその言葉に含まれる『後ろめたさ』は感じたという。
小学生にあがる頃になると宗教オバサンの信仰はより一層激しくなった。
内村さんの家にも夕飯時「むーむむむ、むーむむむ」と抑揚のない呪文のような声が聞こえるようになったそうだ、
そのタイミングになると父親はテレビの音量をあげ、母親は席を立った。ある種のタブーになっていることを内村さんは幼いながら感じたが、理由はわからなかった。
ある日、内村さんが小学校から帰ってくると、オバサンに途中で呼び止められた。
「たけちゃん、甘いの食べるかい?」
特に何も考えず内村さんは頷いた。
「じゃあ家にあがっていきなね。余所から貰ったお菓子があるからね」
後から考えれば世間とほぼ断絶していたオバサンに『余所』があるとは思えなかったが、子供は大人の言うことに疑いをもてない。
「お食べ」
オバサンは紅白饅頭とお茶を出してくれた。
内村さんが両手に持って齧りつくと、いつもの餡子とは違う硬い感触があった。
口を離し、中を見ると黄緑のバッタが詰め込まれてあった。鮮やかな色合いだったという。
「たけちゃん、オバサンね、前世の業が強すぎて私一人じゃ処理しきれなくなっちゃったの。だから周りの人にもお願いして、私の業をちょっとだけ、支えてもらおうと思うのね。神様に教えてもらったんね。だってみんな幸せなんだもん。たけちゃんも幸せよねぇ? お父さんお母さんがいて学校に行って自転車も乗れるんだもんねぇ。だからちょっとだけ、我慢してよ、ね? そうじゃないと私が地獄に落ちちゃうんだって。嫌でしょ? オバサン地獄に行っちゃったら、嫌でしょ? それに比べたらどうってことないでしょう?」
内村さんは床に吐いた。オバサンの狂ったような瞳に怯え、泣きたくても泣けなかった。
「好き嫌いしないで食べなさいっ!」
内村さんは首を振った。
「じゃああんたは私に地獄に行けって言うのかよ! そんなこと言うのか!」
内村さんは再び首を振った。なんだか自分がとてもつもなく酷いことをしているように感じたという。
いよいよ耐え切れなくなって泣き出す内村さんの首をオバサンはつかんだ。力任せに押し込まれるバッタ入り饅頭が口の中に侵入してきた。バッタは生だった。
口の中いっぱいに、青臭さと糞の匂いが広がった。
歯茎に脚が刺さった。
柔らかい内部が「ぶちゅっ」と口の中で弾けた。
内村さんはバッタが喉を通るたびに嘔吐したが、口を塞がれていたために再び飲み込む羽目になったそうだ。
饅頭を三分の二食べたところでオバサンは手を離した。
茹でたように顔を真っ赤に染め、荒い息をついていたという。
オバサンが饅頭の残りをつかんだ時、内村さんは脱兎のごとく逃げ出した。
自宅に駆け込むと、母親に飛び込み大声で泣き叫んだそうだ。
結局オバサンは逮捕されず、病院に収容されたそうだ。
「物心ついてから聞いたけど、だいぶ可哀想な人だったらしいんだ。二人の子供と旦那を交通事故で亡くして、そこからおかしくなっちゃって……。近所の人間も事情知ってるもんだから、いくらお経がうるさくても文句言えなかったみたい。俺は病院に通わされたけど、まぁ無事だったから起訴はいいかって話になって」
今現在は一人の娘をもつ内村さんに「許せますか?」と最後に聞いた。
「多少は。娘の為なら死ねるって言葉、あれ本当だよなぁ。先に死なれたら、これ以上参ることはないと思うよ。ただ今でも娘がバッタなんか捕まえてくると冷や汗出るけどね」
オバサンは、もし生きていれば七十歳くらいになるそうだ。