今は東京で保険会社に勤める鈴木さんは二十代の頃、五年ほど大手チェーンの本屋で働いていた。
就職活動がうまくいかなかったことあり、ずるずると大学卒業後も居座ることになったという。
当然仕事に関しては生半可な社員よりも詳しくなり、バイト仲間からの信頼は集まっていた。だいたいが年下になるので鈴木さんも積極的に力になろうとしてきたそうだ。
恋愛の悩みや進学の悩み、鈴木さんはじっくり話を聞いて相談に乗ってやったという。
年の暮れ、高校生のバイトが入ってきた。
弥生ちゃんという女の子で、明るく溌剌としていた。指導役だった鈴木さんとはすぐに仲良くなったという。高校生とは思えないほど接客態度もよく、お客さんからの評判も上々だった。
だが二ヶ月も経つと、弥生さんは仕事中にぼうっとすることが多くなり、ミスも増えた。
多感な時期だ。なにか悩んでいるのかなと思い、鈴木さんはバイト終わりに弥生ちゃんを誘った。
「悩み事あるんでしょう?」
ストレートに鈴木さんは切り出した。誰かに話すだけでも楽になるものよ、そう鈴木さんは促した。
しばらく渋った後に弥生ちゃんは話し始めた。
「うちのお母さん、宗教にハマり始めたんです」
一年ほど前に遠い親戚から勧められるがまま、健康法のように「とある宗教」を生活に取り入れ始めた。
それでも二人でいる分には距離は感じなかったそうだ。
お母さんも娘の面倒を見なくていけないという義務感がきちんと機能していたのだろう。
一定の時間を除けば世間にどこにでもいるお母さんだった。
だが先月、お父さんが関西から戻ってきた。
単身赴任から戻ってきたお父さんは宗教にハマるお母さんの様子を見て、無視を始めたという。
家に帰ると不気味な経文のようなものを読むお母さんと、まるで誰もいなようにテレビを見続けるお父さんがいる。
バイトが終わってあそこに戻ることを考えただけで吐き気が止まらないという。
鈴木さんは目を逸らさずに言った。
「お母さんとそのことについて話した?」
ぶんぶんと弥生ちゃんは首を振った。
(まだ子供だもん)
八歳年下の彼女を見て、鈴木さんは可哀想に思った。
顎に手をあて、言葉を選んだ。
「お父さんもね、環境の変化に戸惑っているだけなの。大人になるとわかるんだけど、年をとっても精神年齢ってそんなに成長しないものよ。スーパーマンじゃないの。だからちゃんと自分の気持ちを説明して、わかってもらって、それでお互いに相談するのよ」
伝えなければ存在しないも同然。鈴木さんの人生観の一つだった。
「弥生ちゃんもね、もうすぐ大学生なんだから、きちんと話せばご両親もわかってくれるものよ」
鈴木さんの言葉に、弥生ちゃんは頷いた。
翌日のバイトにやってきた弥生ちゃんの両目は真っ赤に腫れていた。
「お母さんに話しました」
「どうだった?」
嫌な予感を感じながら尋ねた。
「訳わかんないこと叫んで……。仏間から白い、たぶんあれ、骨だと思います……それを、そんなのを、庭に埋めてました。私、怖くなって自分の部屋に戻って……」
うんうんと鈴木さんは聞きながら、母親の行動に狂気を感じたという。尋常じゃない。だが顔に出せば失礼になるかと思い、平静を装った。
「弥生ちゃん、お母さんに何て言ったの?」
「宗教、嫌だって。普通にして欲しいって」
昨晩のことを思い出したのか目に涙を浮かべながら弥生ちゃんは言った。
「そ、そしたら、あんたがそんなんだから駄目になっちゃうのよ! って言い出して、あんな声聞いたことなかったのに、どうして? どうしてお母さん変になったんでしょう? もう嫌だ、嫌なんです」
胸が痛くなるような声だったという。
鈴木さんは弥生ちゃんの手を握った。
「乗り越えたらきっといい経験になるから。数年後には笑い話になるよ、きっと」
鈴木さん自身も痛みに耐えるように声を振り絞った。
翌日、弥生ちゃんはバイト先に来なかった。
「無断欠勤ってことになるから、社員の人が連絡いれたんだけど」
自宅の電話には誰も出なかった。夜と次の日の朝に再び電話したが誰もなかったと鈴木さんに教えてくれた。
「私は番号知ってたから携帯に連絡いれたんだけど……」
出なかった。
だがその三時間後にメールが入っていた。
「まだ消せないんです」
鈴木さんは携帯の画面を見せてくれた。
これっぽっちも良い経験になりませんですいた
おとうさん、ほねを掘ってきてわたしにこすりつけました
ほほにざらざらしてそのあとにテレビ台でなぐりましたあ
あすがまてません
さよなら
「メールは何度も送りました。電話はずっと電源が切れていました」
数年後、鈴木さんは弥生ちゃんのお母さんと思しき女性を見かけた。
新聞の紙上で見かけたそうだ。
とある地方のローカル新聞、記事の一つに、
「土地は誰のもの?
住居を求める宗教団体と、怯える近隣住人」
とあった。
プラカードをあげる住人たちを信者たちは無表情に見つめていた。
その中に弥生ちゃんそっくりの中年女性がいたそうだ。
「そっくりすぎて笑っちゃうくらいに。仕事で注意されてる時の弥生ちゃんを、そのままおばさんにした感じで」
弥生ちゃんの行方は、未だようと知れない。
いつか忘れてしまうだろうから、話せて良かった。そんなことを鈴木さんは仰っていた。