北澤が大学に入学したばかりの頃の話だ。
仕送りの額も少ないので、彼は住居を安普請のアパートにするしかなかったそうだ。
今ではインターネットでは悪名の高い、あの会社の賃貸住宅だ。
隣人がテレビで何を見ているか、それがわかるほど壁は薄かったという。
なるべく静かに過ごすように心がけていたが、できたばかりの友人が泊まりにきたいと言えば断ることはできない。
酒を飲みながら馬鹿話をしていると隣人はすぐに苦情にきた。
北澤は友人の手前、
「いちいち細けぇなぁ。ちょっとガツンと言ってやるよ」
そう強ぶってドアを開けた。
極端に細い眉を『ハの字』に曲げる、胸元にタトゥーを入れた(しかも見せびらかすように、素肌に甚平姿だった)二十代後半の男が立っていた。
低い声で一つ、「うるせぇよ」
いっぺんに酔いが冷めた北澤は平謝りをしたという。
友人には「ヤクザがいた」と説明したそうだ。
以来北澤は一層静かに生活することを心がけた。
「それが怖い話? まぁ確かに怖いけど……」
私が内心気を落としながら聞くと、北澤は首を振った。
「これからです」
学生生活も慣れ始めた頃、深夜に隣から怒鳴り声が聞こえた。
「なんだよ、てめぇ、やんのかよ、おい、こら。テメーなんだよ、なに見てんだよ」
ケンカが始まった。北澤はそう確信し、半分不安半分期待で耳をすませた。
「……なんだよ、おい。ふざけんなよテメー……」
男の声しか聞こえなかった。
電話でケンカしているのだろうか? 北澤の考えを、男の声はさえぎった。
「あ、ちょっとやめ、やめて。近づかない。こないで。やだ、ちょっと、髪、いや爪、ひっかかないで」
押し殺した悲鳴のような、恐怖をたたえた、あの低い声だった。
それが止むと、震えた声で不明瞭なお経が始まったそうだ。
「なんみゃーほーだーなんまいほーだー」
ところどころ、男の嗚咽が混じっていたという。
十分ほど続いたそれは、しゃっくりのような音を最後に止まった。
二日後には隣室は空き部屋になっていたという。
「たぶん、なにか居たんでしょうね。その後に入ってきた人もすぐに引っ越していきましたから……」
北澤自身は壁一枚を隔てることにより、怖い思いはしなかったそうだ。
「あんだけ薄い壁でも大事なんですね。霊かなにか知らないですけど、『いわくつき』なのは律儀にその部屋だけでした」
北澤は今では家賃八万の新築、鉄筋コンクリートのアパートに住んでいる。
もう安いアパートには住めないそうだ。