また後できます

 私が先日まで入院していた病院で、聞いた話。
 糖尿病で入院している別室の川添さんとは談話室で仲良くなった。
 互いの病気の話をひとしきりすると、私が振るわけでもなく先方から話し始めた。
「兄ちゃん。夜眠れてるか」
 いえ、と私は首を振った。
 ただでさえ寝つきの悪い私は枕が変わったうえに四六時中動かねばならない看護師方の物音で、目を閉じても二時間も三時間も眠れなかった。
「そんな時でもな、しーっかり、目を閉じてなきゃなんねぇ。おらぁ経験してんだ」
 話し方のトーンから、これが怖い話をしているのだとわかった。
 神妙な顔つきを保ったまま私は胸を躍らせた。
「どんな経験ですか?」
「看護婦が見にくるからだよ」
「はぁ」
 ……起きていたら怒られるのだろうか。
 ただの入院生活でのアドバイスか……そう落胆した私に川添さんは続けた。
「違うんだ、看護婦だけど、いない看護婦な」
 おらぁ看護婦さんのネームプレート見て、全員の名前覚えてっから間違いないんだ。あんな名前の看護婦なんていねぇんだよ。川添さんは説明する。
「それは別の棟の看護師さんじゃないんですか?」
 私が反論すると川添さんはいかにも物を知らない年下を見るような目つきをした。
 心の声が聞こえてきそうだった。「若いヤツは判っちゃいねぇ、知っちゃいねぇ」と。
「兄ちゃんな、看護婦さんが俺の顔までほんの数センチ、キスするみたいに近づくか?」
 私が入院する四日前の晩のことだ。
「すうーっと鼻に吐息がかかるんだよ。嗅いだことのねぇ匂いでな。臭いってわけじゃなくて、そうだな、高い花の匂いみたいだったな。ともかく離れたなって感じたから、うっすら目を開けたんだよぉ」
 ナースの格好をしたお婆さんがいたという。
 背筋が九十度に曲がったお婆さんの両頬に、何本も管が突き刺さっていた。
「管がな、なにか吸引するみてぇに、じゅぼぉーじゅぼぉーって鳴るんだ」
 その度にお婆さんの黄色く濁った瞳が痙攣する。
 ナースコールを押そうか、そう迷ったが起きていることを悟られたくなかった。
「誰か気づいてくんねぇか、助けてくんねぇか」
 目を閉じたまま川添さんは願った。
 五分は経っただろうか。吸引音は次第に音量を下げ、止まった。
 その途端、耳元に管が触れた。
 なんとか悲鳴を押し殺すと、かすれた声で囁かれた。
「また後できます」と。
 川添さんは失神するようにそのまま眠りに落ちたそうだ。

「だからな、目を開けちゃいけねぇ。兄ちゃんも俺みてぇに寝不足のまま退院したくねぇだろ?」
 その晩以来、川添さんは一晩中起きては昼間寝ているという。
「ようやく明日退院だよぉ」
 と川添さんは頬をほころばせた。
 幸いにして、退院するまで私はそのお婆さんに会うことはなかった。

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別府

管理人です。ビックリしたときのリアクションは子供みたいです。

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