改めるまでもないが、以下の話は聞いた話を再構築したものである。
「存在しなかったやつと一緒に遊んだことある?」
私はある、と塩津さんは言う。
中学二年生の夏休み、場所は北陸の海沿い。当時の町名は合併に伴い消えている。
塩津さんの中学一年から二年にかけての間は暗黒と呼ぶに相応しい時代だったという。
些細なことがきっかけで、彼女はクラスの女子たち全員からハブにされた。
不幸中の幸いというかすでに170センチあり体格が良かった彼女は直接的なイジメの標的にはならなかった。
「けどシカトはシカトで、しんどいもの。学校行っても、だーれとも話さないんだもの。空気みたい。空気ってより瘴気みたい。毎日毎日、私ここで何をしているんだろう? って不思議だった」
親にはもちろん言わなかった。彼女は黙って耐えた。
クラスからの無視は中学一年の夏から始まり、二年生の秋まで続いた。
一年次は読書とテレビゲームでやり過ごした。
これもクラス替えがあれば終わる話だと信じて耐えた。
だが二年の春、クラス替えが行われた後も、どういった根回しがあったのか知る由もないがクラスメートからの無視は継続していた。
あぁもうこれは限界かもしれない。
プライドにみりみりと亀裂が入った音が聞こえたという。
学校に火事がおきることを切に願った。
明日から父親が突如転勤することになり、それにより転校することを心の底から願った。
不登校は選べない。親に一から事情を話せばならなくなるからだ。妹にも説明ができない。そんなハメになるんなら死を選びたい、当時は本気でそう思った。そして事態は何にも解決はしなかった。
夏休み中のある日、塩津さんは近所を目的もなく散歩していた。
行くあてはなかったが、親に『友達と遊んでくる』と言った以上、晩御飯までは帰れなかった。
時間を潰すとなるとコンビニかスーパーのゲームコーナーだがどちらも両親と遭遇する危険性があった。親戚も同じ町内に住んでいる。うかつなところには行けない。一人で本屋で立ち読みしているところを発見されたら、きっと親にもすぐに伝わるだろう。そうすれば『あんた友達と遊んでいたんじゃないの?』という話になる。
居場所は数えるほどしかなかった。
遊泳禁止の海でぼうっとするか、町の外れにある工場の敷地内で(そこはバカみたいに広かった)本でも読んで時間を潰すか。
塩津さんは工場の敷地内を選んだ。
従業員の寮があり、野球ができるグラウンドもある。花見をするための樹木が並ぶ広場もあった。
誰もいない野原で寝転んでいるとたまに野ウサギも見えた。
イヤホンを耳につけMDのスイッチを入れた。マリリンマンソンを流す。塩津さんは二十代後半になった今でも同じ曲を聞く。
本を開く。
たぶん塩津さんの傾向からいってホラー小説の類いだろう。惨めな自分の姿よりもっと惨めな姿を読み取れるものだろう。
声はたぶん二度三度かけられていた。
音楽越しに聞こえた声に気づいたときは身体に電流が走った。大人だったらヤバい。まずい。怒られる。知っている大人だったらもっとヤバい。何をしていると聞かれたら。
――何て答えればいいのだろう。
覚悟も決まらぬまま顔を上げた。さらに驚いた。同年代の女の子だった。
「――なに?」
「なにって何。ウケんね」
「いやいや。え、ウケないでしょ、別に。何?」
ウケる、ウケるってば。『ウケる』の使い方を誤っていると思われる彼女はさらに笑った。
塩津さんもつられて笑い返した。そして違和感に気づいた。
少女の顔だった。
左目は重たげな一重なのだが、右目がまるで眼の形を九十度回転させたような縦型だった。縦長の楕円だった。睫毛だけは孔雀のように綺麗にカールしていた。全体の服装は薄汚れていた。
少女が自分の容姿に自覚的でないことは、話しぶりや仕草からわかった。それはあくまで年齢相応の無邪気な話しぶりだった。
それは塩津さんの居心地をことさら悪くしたという。
「ここで何してんの?」
「ぼうっと――」
それ以上追求されると困ると思いながら答えた塩津さんに、少女はふぅんと頷いた。
「暇なの? 遊ぼ」
少女のペースの飲まれたせいか塩津さんは「何して?」と素直に聞き返した。
「そう、ネ……」
少女は首をぐるりと回す。右目がさらに細まった。コインの投入口を縦にしたかのようだった。
塩津さんもつられて見回したがゴミ箱しかない。遊び道具と思われるものは落ちていなかった。
「ぷちやきゅう、やろ」
家まで道具をとってくるのが面倒くさいから、と少女はゴミ箱から空き缶を拾い、手ごろな大きさの木の枝を持ってきた。
空き缶を投げ、バット代わりの枝で打つ。なんともシンプルな遊びだった。
なぜ女である私を野球ごっごに誘うのか。
その目でちゃんと球(この場では缶)が見えるのか。
「ネ、最初バッターとピッチャーどっちがいい?」
「どっちでも……」
「じゃあバッターからやって、いいよ」
「あ、うん」
バットと呼ぶにはいささか大降りの枝を握り、なんとなく素振りをする。従兄弟と何度か遊んだことはある。よく見てから振ればいいのだろう、塩津さんは考えた。
少女はこの遊びに慣れているのか投げるマウンドを決めていた。
「名前、なんていうの?」
「キヨコ」
塩津さんも名乗ると「よくある名前」と笑われた。
キヨコの投げる空き缶を、塩津さんはことごとく面白いように打った。
「つまんない、ネ」
「なんでよ。もっと投げてよ」
夢中で遊んでいるうちに、キヨコの顔の違和感が次第に気にならなくなっていったという。
気づけば夕焼け空だった。
塩津さんは思い切って聞いた
「キヨちゃんさぁ……顔のそれ、どうしたの?」
交通事故だろうか、それとも生まれつきなのだろうか。尋ねていいものなのかわからなかったが、好奇心は止められなかった。
だが返ってきた答えは予想と違っていたという。
「顔……何ソレ?」
きょとんとした表情を浮かべるキヨコに、塩津さんは戸惑った。何かしらの説明が入ると信じて疑わなかったからだ。子供同士にとって目立つ違いは話のネタである。骨折をした、切り傷をおったり。女子同士でもそれらが話に上がることは何ら不思議ではなかった。
キヨコの顔の違和感に、今まで誰も話題にしてこなかったという事態はあるのだろうか。
だが目の前の少女にすっとぼけている気配はなかった
塩津さんは急にバツが悪くなった。
「ちょっとトイレ」
逃げるように公衆便所に入ってから戻ると、空に夕日の名残は消えていた。
――そろそろ帰らなくちゃ。
だがキヨコはすでにいなくなった後だった。
……怒ったのかな?
やはり触れてはいけない話題だったのだろうか。……どうしていつもこう失敗をするんだろうか。ため息をつきながら誰もいない広場を塩津さんも後にしたという。
二日後だった。
「ネ、また会ったネ」
塩津さんは反射的に手をあげる。
「うん」
キヨコが立っていた。瞳はやはり縦型だ。当初見たときよりもインパクトはない。だがある種の障害がもたらす身体的な形としても、あり得ないという結論を塩津さんは二日間でだしていた。人体の不思議を超えていると中学生でもわかった。そして彼女は一つの仮説を用意していたという。しかしそれは一緒に遊ぶとしたら、不要な理屈だった。寂しさは理屈なんてねじ伏せる。
――彼女が誰だっていい。
そしてもし次に会うことがあれば、真っ先に失言を謝ろうと塩津さんは思っていた。
「あのさ……」
だがさんざんに用意していたはずの言葉が出てこない。
この間はごめん。変なこと言っちゃってごめん。気にしないで。よくわかんないこと言ってごめん。悪いからアイス奢るよ。ごめん。
言葉は喉までのぼるが出てこない。
バツが悪い、格好が悪い、小さなプライドが邪魔をする、拒絶されたらどうしよう。いつもの自分が邪魔をする。
葛藤する沈黙を破ったのはキヨコだった。
「ネ、ワタシのこと覚えてる?」
塩津さんは頷く。
「じゃあ、どうしたの? ウケんね」
とキヨコは笑った。
「調子ワル?」
塩津さんは首をふる。ただ喉がつっかえているだけなのだ。
自分は嫌われていないだろうか。
だがキヨコの言葉はあっけらかんだった、
「今日はどうする?」
どうすると聞きながらもすでに歩いているキヨコを見ると塩津さんは無性に嬉しかったという。
そのおおざっぱな誘い方が、まるで親友のように思われ、嬉しかった。
どうしよっかと呟くキヨコに塩津さんは「何でもいいよ」と言う。
「じゃ山の方いこ」
いいよ、と塩津さんは答えた。特に目的があったわけではない。本当に何でも良かったのだ。
十分ほどの距離をくだらない話をしながら歩いた。
だがキヨコにはテレビの話が一切通じなかったそうだ。
同世代なら誰しもが知っているウッチャンナンチャンの番組や安室奈美恵の話が全く通じなかった。アンディフグをキヨコは知らなかった。
「知らない? カカト落とし。すっごい強烈なやつ」
ウケんね、とキヨコは短く言った。
山につくとキヨコは、
「虫取りしよっか、ネ。どっちがいっぱい採れるか」
と言った。
「かっこいい虫を捕まえたら、カチ。高得点。カブト十点、クワガタ八点。カマキリバッタ五点。他はそん時決めよ、、ネ」
「えぇ……」
塩津さんは虫取りなんてやりたくなかった。
野球ごっこまではいいとして、流石に虫取りは小学生までだろうと思っていた。
誰に見られるわけでもないが恥ずかしい。
「素手で?」
「うん。家まで道具をとってくるのがイヤだし」
「えぇ……」
塩津さんは絶句した。
それは無理だ。どう考えても無理だ。カブト虫でさえ直接は触れたくない。
「じゃ、一時間くらい後にまたここにしよ」
駆け出しそうになっているキヨコに塩津さんは聞かずにいられなかった。
「もしさ、捕まえてもどこに入れておくの」
「ポッケ」
言い放たれた言葉に塩津さんは遊びを放棄した。
林の方角に走っていくキヨコの背中を眺めながら「捕まえられなかった」と言おうと決心をしたという。
持っていた小説を開いて木陰で涼んでいると耳をつくものがあった。一瞬鳥の鳴き声かと思った、うわぁあああという悲鳴がキヨコの声だとわかったとき、塩津さんは音が聞こえた方角に駆け出していた。
どうしたの? 聞くまでもなかった。
見ればわかった。
キヨコは三メートルはあろうかという崖の下に落ちていた。反射的に大きな声をあげる。
「なんてとこに隠れてんの」
つい叩いた軽口だったが声は震えていた。
「だいじょうぶ、ダイジョブ、平気ネ」
「でも……」
大人を呼んでくる。駆け出そうとした塩津さんをキヨコは呼び止めた。
「いいから。いいから」
キヨコの身体は崖がもたらす影に溶けているように見える。
「待ってて」
塩津さんは崖の低い地点まで遠回りし、腰まである雑草をかきわけキヨコのもとへ走った。パッと見で大怪我であることが理解できた。肘が落ちた衝撃で曲がっていけない方向に折れていた。紫色に脹れた腕はレスラーのように太くなっていた。足首は脛にくっつきそうなほど捻ってあった。元に戻るのだろうか。そればかりが頭をよぎる。
キヨコは首を曲げたまま微笑んだ。正面を向こうと試みていたがその度に痛みで眉をしかめていた。
「へーきへーき。唾つけとけば治る、ナオるナオる」
その言葉を信じることはできなったが、疑ったところで事態はよくならない。
「バイキン入るよ」
「ウケんね。ばいきんって。ネ、手ぇ貸して」
塩津さんが折れてない方の腕を掴むと、案外にキヨコはすんなり立ち上がった。
「虫取りはまた今度ネ。じかいもちこし」
頷くほかなかった。
病院に行った方がいいよと試しに塩津さんは言ってみたが、キヨコは最後まで唾による自然治癒を主張していたという。
翌日。
約束していた場所、工場の敷地内で落ち合った塩津さんは息を呑んだ。
キヨコの肘は曲がったままで、傾げた首の側面には白い突起物が見えた。皮膚を突き破る小枝のようなものが眼を釘付けにする。
疑いようもなく身体が壊れていた。疑いようもなく人外だった。
ぶらぶらと片腕を揺らしながらキヨコは無事な方の手をあげる。九十度傾げた頭を器用に塩津さんに向ける。もうピーナッツのような右目には注意は向かない。強い風が吹くだけでキヨコは崩れ落ちてしまいそうだった。
痛々しい姿に塩津さんが顔をしかめると、キヨコの手首がぽろりと落ちた。だが二人ともそれについて触れなかった。
「ネ、ネ、ネ。きょうはなにしよっか」
思いついたのはテレビゲームとか公園でお喋りとか、身体をとにかく動かなさいことばかり。
言えなかった。
言えば今さら身体の不具合を指摘することと同義だ。それはできない。常人にはありえない状態であることを指摘することは、今この状態がおかしいことを認めることが怖かった。
「思いつかない? ウケる。じゃ歩こ。ほっつき歩こ」
ウケるの使い方がおかしいことも、もう指摘はできない。
一つおかしな箇所を突いてしまえば砂城の決壊のごとく何とか形を成しているものがバラバラになってしまう。
少しでも先延ばしにしたい。一日でも一時間でも後にしたい。
別れが近いことがありありと肌で感じられ、胸の底からこみあげてくるなにかを誤魔化そうと塩津さんは必死だった。
せっかく友達になれたのに。
塩津さんが涙を堪えているにも関わらず、キヨちゃんは一方的に喋った。断片的な内容だった。無理やり形にしたコラージュのようだった。
「だいぶ長い間ネ、歩いてた気がする」
汗が脇の下を流れる。シイの木のきつい匂いが鼻をつく。
塩津さんはじっと話を聞く。
「たくさんあちこちたくさんと歩いてた」
「そのあいだ学んだしウケたし……に」
「やっぱ喋るの……いね……に……」
キヨちゃん、塩津さんは声をかける。
ノイズがかった声に限界を感じた。
「ン?」
「この間、目のこと聞いてごめんね。女の子に聞くことじゃなかった」
塩津さんの謝罪をキヨちゃんはよくわからないという風に笑った。
「遊んでくれてありがとう。嬉しいの、本当に。あんたがなにものであれ、あんたのこと、とっても好き」
キヨちゃんの縦になった瞳がとても綺麗、塩津さんは思った。
睫は孔雀のようだった。
皮膚から突き出した骨も歪んだ背筋も壊れたオモチャのように曲がった肘も、グロテスクには思えなかった。
「ウケる、ウゲんえ、ウゲケケケ、ん、ネ」
蝉が鳴くなかでキヨちゃんは悲しそうに嗤っていたという。
その瞬間は思い出の静止画、そう彼女は言う。
話し終えると塩津さんは長いため息をついた。
「その時に、頭痺れちゃった。不思議よ、二日酔いの時みたいな、あるいはセックスした後みたいな痺れ方。どうしてだったんだろう? ともかく私の意識がハッキリした時、キヨちゃんはいなくなってた。消えてた。煙みたいに」
塩津さんは日本酒五合を飲み干しながら、長い話を語り終えた。当然私の奢りである。なんだこの女、胸中で舌を打つ。
「ねぇ、アンタどう思う?」
よく憶えてますね、と意地の悪い私は答えた。行間に意味は込めてある。普段の怪異譚を聞く際には発さない言葉だ。
だが彼女ははっきりと覚えている。
キヨちゃんのことを忘れたことはない。自分が作りあげた幻覚だと大人になってから指摘されたが、そんなわけがない。そんな馬鹿な話はない。信じられない。幽霊を見たという話を人が信じないように、あの娘がいなかったことを信じるわけにはいかない。
あの工場の敷地内で死体が見つかったという話は聞かない。キヨちゃんがどこからやってきたのか予想もつかないと塩津さんは言う。
「アイツともっと一緒に遊びたかった」
塩津さんは帰省する度に、今も同じコースを一人で歩くという。
コメント
キヨちゃんの見た目はグロテスクですけど、良い話だと思いました。
失言を謝るシーンで泣けました。
この話創ったヤツ絶対許さん
火垂るの墓でも泣けなかった30男をいとも簡単に涙ぐませやがって…