冬の季節

 冬が怖いと安子さんは言う。
 中学校の下校時に迷子になったから、という理由だった。

「雪が降った日なの。十年に一度ってレベルの大雪。登校するときは『ちょっと積もってるなぁ』ってくらいだったのに。私、中学から私立だったから、バス通学で」
 下校時にはバスが二、三時間遅れての運行だった。次のバスがいつ来るか誰にもわからなかった。
「もうバス停は悲鳴よ、みんなママに迎えにきてもらうって言って。私の家は共働きだからそれも出来なくて。待っても待っても来ないから……、歩いたの」
 学校から自宅まで徒歩では一時間以上かかると計算した。実際、一度も歩いたことはない。けれどバスで四十分であれば一時間半もあれば帰れるんじゃないか、と安子さんは思った。体力には自信があったという。
 視界は一面雪景色。
 思春期特有の万能感で彼女は歩きはじめた。
 一歩、また一歩。傘を差していたけれど、次第に意味がないと思って鞄にしまった。
 歩道は雪に圧迫されていて狭かった。後ろからやってくる自動車には注意して歩いた。キンモクセイに積もった雪は美味しそうに見えたという。

 下校を始めて数刻経って、時刻は六時になろうとしていた。
 辺りは薄暗い。けれど見慣れた地元の町は見当たらなかった。
 せめて見たことのある道路やお店でも、と安子さんは思ったものの、視界に映るはどれも似たような田んぼばかりで自分がどこにいるのか予想もつかなかったという。
 当時はまだGoogleMapも位置情報サービスもなかった。彼女が持っていたPHSではそんなこと不可能なのだ。
 だいたいの地図は頭の中に入っていたものの、さすがに安子さんも不安になった。
 大雪の日に歩いている人もいない。
 安子さんは不思議と大胆に、歌を歌いたい気分になったという。
 最近CDを買ったばかりのミュージシャンの歌詞を思い出しながら、彼女は歌った。
 すっと寄ってくる影があった。
 慌てて口を閉ざす。羞恥心から顔を火照らせてから彼女は気づいた。
 影の長さに。
 影は二メートルほど高さがあった。
 本体はなかった。
 影は人の形をとっていて、細長い両脚に両手。
 頭部は異様に大きかった。ダンボール箱くらいあった。
 首から小鈴をぶら下げていた。
 影は無言で安子さんの前を歩きはじめたという。
 彼女もまた無言で、その後ろを歩きはじめた。
 シャン、と小鈴の音が鳴った。
「ビックリしたけど……たぶん今ね? 今、三十を越えてから遭遇したら絶対違うことすると思うんだけど……。写真を撮るとか、夫に電話するとか。けれどあのときは全然、なんていうんだろう、ついていくのが自然だと思ったの。ううん、正直に言えばね、ちょっとイタいと思うけど……いやかなりイタいけど、『やっと遭えたぁ』って感想。え? やっぱり変? ほら、私好きだったの、本とか漫画とか。うん、本当はそんな怪しいものについていくべきじゃないってわかるんだけど」
 ただ、と安子さんは言った。
 ――非現実な世界がいつか降ってくるって真剣に考えられるのって、中学生の特権じゃない? だから私はその特権を大いに活用したって言えるの。
 彼女はオカルトに関して肯定でも否定でもないスタンスだった。

 影は安子さんの前を歩きながら、ときおり振り返るような仕草を見せた。
 まるで散歩を先導する犬のようだったという。
 交差路もずんずん進み、薄暗い道も迷うことなく進路をきった。
 シャンと小鈴が鳴る。
 ――こんなところに線路なんてあったかな。
 ホワイトアウトした道にレールと架線がぼんやりと現れた。
 線路の果ては見えない。
 はるか遠くのほうで列車の走る音が聞こえる気がした。幻聴かもしれないと気づいたがどうでも良かった。
 ――これ乗ったらダメなやつだろうなぁ。
 直感でそう思った。
 浦島太郎の亀のような、となりのトトロの塚森のようなものだと安子さんは思った。
 凝視したくなる気持ちをこらえ、横目で見るとレールの果てには影が無数に立っていた。
 行ってみたい気持ちと、行ってはいけないという理性。
 ――どうしようかな。
 安子さんが迷っているときだった。
 シャン。
 シャン シャン シャン シャン シャン シャン シャン シャン シャン。
 雪はがしんしんと雪は降るなか、鈴が狂ったように鳴った。
 線路に進むことを急かされるような音だった。
 鈴の音は安子さんを我に返らせた。
 突然、自分がどんな場所に連れていかれるのか怖くなった。
 安子さんは鈴の音に二の足を踏んだ後、衝動的に駆け出したという。

「今なら言葉にできるわ。不思議な世界に憧れがあったけど、家に帰れる担保が保証されていないことが恐ろしかったの。私が行きたかった世界は、どこでもドアみたいに自分の意思で行き来できる世界だったってこと。そんな都合のいい話なんてないのにね」
 紅茶を口に含みながら安子さんは一つ息を吐いた。
「怖かったって? 当たり前じゃない! あそこでついていったら……今こうしていられないと思うの」
 ただ、と安子さんは言う。
「たまにこうも思うの。あそこでついていったら今この世界にいなくても済んだんだろうなぁって。保険とか老後とかつまんないこと考えない世界で、きっと無限に雪の世界を歩いていられたんだろうなぁって。それって、たぶん今とってもやりたいことなの」
 彼女はとある小売店の責任者で、日常の仕事はハードだという。
「きさらぎ駅って怖い話あるじゃない? あれを読んだときに既視感あったもの。たぶんあの線路はきさらぎ駅に、わけわかんない場所に続いてるんじゃないかって思うの」
 影のことを『ユキサ』と彼女は呼ぶ。
 雪が降る季節になると、再び影に出会えないか、彼女は探すという。

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別府

管理人です。ビックリしたときのリアクションは子供みたいです。

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