ヒロさんがホームのベンチに座り、新聞を読みながら通勤電車を待っているときだった。
「新聞読んでいたら耳に入ってきたんです。とても上手でしたねぇ。まるでアニメの声優さんのようなレベルで歌っていましたね……」
最初女性が歌っているものと思ったが、よくよく聞くと女性のボイスを真似た男性の声だった。
<そばかすなんて きにしないわ>
<おてんば いたずら だいすき>
<わたしは わたしは わたしは……>
歌はキャンディキャンディの主題歌だったという。
ほれぼれするような美声ではあるが場所は朝の通勤客がごった返すホームである。
ヒロさんは不審に思って顔を上げた。
歌い手の青年はすぐに見つかった。
イエローラインも点線も超えた、ホーム下まですれすれの場所に立っていた。
年は三十歳手前くらいだろうか、キチンとした背広にネクタイとありふれた通勤の姿である。
青年はビジネスバッグを抱きかかえ満面の笑みだった。
「ちょっと唖然として見てました。あまりに歌が上手すぎたし、場に相応しくない曲でもあるし、普通すぎる姿形もかえって異様で」
ホームにいる周りの通勤客たちもヒロさん同様に「引いて」いたが耳は離せなかった。 テレビのドッキリかな、そう囁きあう女子高生たちもいた。
あぁ……テレビなのかな?
ヒロさんは無理やり納得をしようとした。
駅員もあっけにとられているのか、アニメソングを声高らかに歌う青年を注意できないようだった。
<わらって わらって わらってキャンディ>
<なきべそなんて サヨナラ ネ>
<キャンディ キャンディ>
電車の到着を知らすアナウンスが流れる。
同時に、青年がくるりと振り向いた。
不審げに見つめている通勤客に、
<終わりです! 終わりです!>
深々と頭を下げた。
まるで劇の幕が下り終わったかのように、青年は顔をあげ周りを見回した。
「なんというか、不謹慎かもしれませんが、……すごく幸せそうな……満足そうな顔をしていましたね」
迫りくる電車が警笛を鳴らす。
ホームにいた駅員は口を開けたまま青年を見つめていた。
青年はやってくる通過電車をちらりと確認し、そして気絶するかのように後ろに倒れこんだ。脱力した青年の体を猛スピードの電車が掬った。けたたましい急ブレーキ音に混じった破裂音。
あまりに突然の出来事だった。
「今でも忘れられません、今でも。瞬間を、人が消滅する瞬間を、初めて見ました」
その場にいた人間の全てが絶句したという。
次いで女性たちは悲鳴と同時に腰を抜かす。駅員さえもホイッスルを鳴らすことされできずに座り込んだ。ヒロさん自身も新聞を手にしたままベンチから動けなかった。
「ホームはパニックになってしまいました。泣く喚くは当然で。大騒ぎで駅員に駆け寄る人、階段を昇って逃げる人、吐いてる人、気絶しそうになってる人……。ただね、一つひっかかったんです」
違和感のもとへヒロさんは視線を送った。鶏小屋に猫が入り込んだような騒ぎの中――。
「……一人だけ、大騒ぎの中に一人だけ、手を叩いている人がいたんです」
中年男性が、感激したかのように、今にもクラシックコンサートよろしく「ブラヴォー!」と叫びだしそうな勢いで、拍手をしていた。
ヒロさんと年齢もさほど変わらない、ビジネススーツを着込んだどこにでもいるサラリーマンにしか見えなかったという。
「あぁ世の中には、違う世界にいっちゃってしまった人が、パッと見ではわからないのに、すぐそばにいるんだなぁと思って。この出来事には背筋に冷水を浴びせられたような、あるいは足元の地面が不確かに思えてしまうような気分に、なりましたねぇ……」
駅名は伏す。人身事故の多い駅であるという。