「どうして仲良くなったんだっけなぁ……。たぶんヤマちゃんが入学式のあとに話しかけてくれて、そこから仲良くなったんじゃないかなぁって思います。それともAちゃんを介して仲良くなったのかなぁ」
十年以上前の話だという。
香川さんが同級生に誘われ老人ホームのボランティアに参加したのは高校一年の夏休み。
「ヤマちゃんがみんなに参加しよって言うし、断る理由もないし。今考えると大学の推薦を狙っての行動だったんだろう なぁって思うんですけど」
自分は流されるタイプだと思う、と香川さんは言う。
ボランティア期間は一週間ほどだった。
家からバスで二十分ほどの老人ホームは香川さんたちのボランティアを歓迎してくれた。香川さんを含めた四人に親切に作業を教えてくれたという。
仲良しのヤマちゃんは職員の補佐をし、あとの二人のAちゃん・Bちゃんは食事の配膳や片付けを行っていた。
香川さんは主に老人の話の聞き役を担っていたそうだ。
だが香川さんの担当したご老人は荒かった。
天候や咲いた花の話をするものだと思っていた香川さんは驚いた。
全てが命令口調で、話すことといえば若い頃の自慢話。
しゃがれた声が聞こえづらく、聞き返すと「ばかやろう」と怒鳴られる。
初日が終る頃には頃には香川さんも疲れきっていた。
帰り道、ヤマちゃんが同情してくれた。
「あのお爺ちゃん最悪。大変だったでしょう? 私も『オレが若い頃なら引っ叩いてる』って言われたもん。何様だっつーの」
相槌をうつ他の二人も続ける。
「あのお爺さん、職員の人にも偉そう」
「どこかの会社の偉い人だったんだって」
皆の哀れむ視線に、香川さんは自分がハズレを引いたような気分になった。
「案外ダルいんだなぁ」
発案者のヤマちゃんがそう呟いた言葉は、香川さんの耳に届いた。
件の老人のお名前は柏木さんといった。
Aちゃんが仕入れていた情報の通り、大きな会社で偉い立場にいたようで、香川さんや職員だけじゃなく、同じ入居者である他の高齢者たちにも「上から目線」で話していたという。
香川さんが他の高齢者と話をしていても呼びつける。
些細なことで怒鳴りつける。
ヤマちゃんも配膳が遅くなったという理由で床に唾を吐かれていた。
(どうしてこんな扱いされなくちゃいけないの……)
流石に職員さんも気を使い、担当から外させたが、ことあるごとに柏木さんは絡んできたという。
ボランテイア三日目になると顔を合わせるのも辟易してきた。
家を出ることが次第に苦痛となっていた。
あと半分の辛抱と自分に言い聞かせ作業を終えると、ヤマちゃんが手招きをしてきた。
「ね、あのお爺ちゃんさ、いつもポケットに写真入れてるよね」
「うん……そうみたい」
件の柏木さんはふとしたタイミングで写真を眺めている。
一度気になって香川さんが背中越しに覗くと、そこには若い頃の柏木さんと子供たちが写っていた。
「見た感じ、家族の写真みたい」
「やっぱり」
とヤマちゃんは笑った。
気づけば友人二人も傍にきていた。
「ね、あれ黙って借りてきてよ」
「え?」
「写真。だってあのジジイ、私に怒鳴ったんだよ。私何にも悪くないのに。ちょっとした罰よ」
「でも……」
「ちょっと焦らせるだけだって」
戸惑う香川さんの背中を友人たちは後押しした。どうやら鬱憤が溜まっているのは香川さんだけではなく全員のようだった。
「罰に老若男女関係なくない?」
「年寄りだから罰を与えないって逆に差別じゃない?」
「一日だけビビらせるだけだから。ボランティア終ってからじゃ仕返しできないでしょう?」
抵抗はあったものの、断れる雰囲気ではなかったという。
渋々頷いた香川さんは、帰宅する間際に柏木さんの服から写真を抜き取った。服は椅子にかけられてあったので、悩む間すらないあっけなさだった。
帰り道は四人で写真をネタにさんざん笑いあったという。
若い頃の柏木さんはすでに頭頂部が薄く、嫌われ者の社会科の教師にそっくりだった。
「死ぬ前に返した方がいいんじゃない」
Aちゃんがふざけて言う。
「まぁ化けて出てきたらウケんね」
ヤマちゃんはクスクス笑っていた。
だが翌日老人ホームに行くと唖然とした。
件の老人がいなくなっていた。
職員の人が言うには、柏木さんは深夜突如体調を崩し、病院に緊急搬送されたということだった。
「みんなごめんねぇ。あの人の相手、大変だったでしょう。悪い人じゃないんだけどねぇ……」
職員さんが今更ながら慰めてくれる言葉を、香川さんは呆然と聞いた。
AちゃんとBちゃんは無言のまま俯いた。
脇に嫌な汗をかいた。
何か取り返しのつかないことをしてしまったような気分だった、と香川さんは仰る。
ヤマちゃんは頬に手を当て、信じられないといった表情をした。
「早くよくなるといですね。あんなにいいお爺さんだったのに」
過剰な、嘘くさいリアクションだった。
それに答える職員の声のトーンは柏木さんの容態の重さを物語っていた。
写真を返しそびれたことに気づいたのはボランティア期間も終わってからだった。
「あんまりに動揺しちゃってたから……。けどひどいの。ヤマちゃんに、この写真どうしよう? って言っても、預かってくれないの。ヤマちゃんがもってこいって言ったのに……」
柏木さんがいなかったせいか、残りの三日はあっという間だった。
香川さんは写真を捨てるわけにもいかず、近いうちに施設に持ってかえらなくていけないと思っていた。そっと玄関に置いておけば職員の人がうまいことやってくれるだろうと考えたという。
その日、香川さんの両親は旅行に出ており、中二の弟と二人きりだった。
夏休みも中盤にさしかかり、ボランティアのことも忘れかけていた。
深夜、彼女は便意で目が覚めた。携帯を確認すると二時を過ぎている。
階下の洋式トイレへ向かう。
寝惚け眼でズボンを下ろし、便座に腰掛けた。
と、突然、ドアがとんとんとノックされた。
「つよし?」
驚いて弟の名を呼んだが、返事はない。
「つよ……」
香川さんはあげかけた声を止め、耳を澄ました。
カリカリカリカリ……。ドアの表面を爪でひっかくような音だった。
「だれ?」
返事はなかった。
早寝の弟が起きているわけがなかったし、悪戯を仕掛けるタイプではなかった。
(聞き間違い?)
慌てて用を足そうとすると――。
バチャンッ。
便器から水の跳ねる音がした。臀部に冷たい飛沫がかかる。
「え?」
反射的に股の間を見た。
何もなかった。
ヤマちゃんの言葉が脳裏に蘇る。
『化けて出てきたら――』
見上げるとトイレのドアの隙間から老爺の顔が半分見えた。
香川さんを睨みつけていた。
全身の産毛が総毛だった。
腐敗した色をしているが、柏木さんだった。
人の顔から、肌から、血が通わなくなるとこんなにも色が黒くなるのか、香川さんは他人事のようにそう思った。
ゆっくり、ゆっくりと眼球が脹れあがり眼窩から零れ落ちた。
黒い空洞にから、なおも射すような視線があった。
香川さんは動けなかった。
ただ唇だけが動いたという。
「ヤマちゃんが、ヤマちゃんが……言ったのヤマちゃんです……」
首が傾げた。
ドアの隙間から、灰色のゼリー状になった腕が伸びてきて、香川さんの胸を掴んだ。
同時に目の前が暗くなり、香川さんは気を失ったという。
翌朝、困惑した弟に起こされた香川さんは鏡を見た。胸元に紫に変色した痣ができていたという。その痣は小さくなったものの今も残っている。
その出来事からヤマちゃんとは疎遠になった。夏休みが明けてからは自然と四人は集まらなくなったそうだ。
「なんですかね……写真を押し付けてっていう怒りとか、老人のことを心底どうでもいいって思ってる姿が怖くって……」
そのままろくに話すこともなく卒業し、バラバラになったそうだ。
そして最近、FaceBookを始めた香川さんは久しぶりにヤマちゃんの姿を確認した。
「あのお化け、ヤマちゃんのところには出てきていないのか、それだけヤマちゃんに聞いてみたいです、今も」
現在ヤマちゃんは東京の三軒茶屋に住み、高そうなマンションの一室でOL生活を満喫しているそうだ。
一方香川さんは地元に残り、工場のパートに明け暮れているという。