偶然

「その子は国分寺から乗ってきました」
 村田は営業先の立川から新宿に戻るため、中央線に乗っていた。
「最近よく見かけますよね、旅行に持っていくキャリーケースひきながら電車乗る子って。あぁ嫌だなぁって思ったんです。あれ本当に旅行行くんですかね? そんなわけないですよ、他人の迷惑これっぽっちも考えないで楽しようと思ってるんですよ。これだから平日昼間の電車って苦手です」
 村田に短気ですか、と質問すると「普通です」と答えられた。「サラリーマンなんてみんな同じこと思ってますよ」
「電車は満員までとはいきませんが、七割くらいかな、やや混んでいました。キャリーケースに足をぶつけないように僕は避けていました。しばらくすると怒鳴り声が聞こえました。見るとスーツ姿のおじさんが、キャリーケースに足を踏まれたと女の子に威圧的に怒鳴っていました」
 居合わせた他の人と同様に、村田は黙ったまま視線だけを送る。
「迷惑と思っていたのは僕だけじゃなかったんです。今考えると、この怒りっぽいおじさんが乗り合わせたことも、悪い偶然だったんでしょう」
 電車はじきに三鷹に到着する頃合だった。
「女の子はちょっと同情しちゃうくらい困惑していました。小声で謝っていたようですけど、おじさんは止まりません。ずっと隣でぶちぶち言われてパニックになったんでしょう、その子はキャリーケースを網棚に乗せました。そこまで重くなかったんでしょうね。それでもおじさんはずっとやれ『そんな軽いなら手に持て』とか『どこ行くつもりなんだ』とか」
 気持ちはわかるが、いささかやり過ぎじゃないか可哀想じゃないかと村田は思い始めた。
「そのおじさんは次の駅で降りていきました。代わりにベビーカーを連れた女性が乗ってきて。女の子は……携帯をいじり始めました。こっちにも移ってくるくらいの居心地の悪さです」
 村田は嫌な気分になりながら電車に揺られていた。おまけに耳障りな赤ちゃんの泣き声も始まった。
「偶然の重なりは怖いです。本当に怖いのです」
 誰も予想していなかった。事故が起こるまでは。
「電車の揺れも激しくなって、網棚からキャリーケースが落ちました。ベビーカーの上に。赤ちゃんの泣き声は、テレビを消すようにブチッと途絶えました」
 さっきまでうるさかったはずの電車は無音になったという。隣の人の息遣いの音すら聞こえそうだった。
 数拍後、母親の叫び声で耳が切り裂かれそうになった。村田は激しい揺れを堪えた。キャリーケースの女の子がふらふらキャリーケースを引っ張り上げると隣の車両に移っていった。
「たぶんその子は乗客に捕まえられていたはずです。……あまりよく覚えていません。目に焼きついているのは、陥没した肉。マスクメロンのように丸い顔が潰れ、鼻も目もめりこんでいました」
 電車はトラウマになりませんでしたか? と村田に聞いた。
「最初は。けどサラリーマンですから」
 サリンが撒かれたって翌日には電車に乗るんです、と村田は自嘲気味に言った。

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別府

管理人です。ビックリしたときのリアクションは子供みたいです。

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