てっきり一流企業の旦那さんがいて、お洒落な一軒家だと……

 熊岡さんは新興住宅街に夫と共に引っ越した時の話だ。
 近隣に友達もおらず暇を持て余していた熊岡さんは連日喫茶店に入り浸り、読書に耽っていた。
 生活も落ち着いてくると次第に喫茶店の常連とも顔見知りになる。
 そこで近所の安田さんという身なりのよい女性と仲良くなったそうだ。
 人恋しさもあり、熊岡さんは早速家に誘った。
 読書という共通の趣味を介し、気づけば無二の親友に熊岡さんは思えてきたという。
 そうすると好奇心も出てくる。身なりから想像するにきっとハイクラスな暮らしぶりなのだろう。
 お宅も見せて欲しいとお願いするが、しかし安田さんは決して家に招こうとはしない。
 焦れた熊岡さんは貸す予定になっていた小説に携帯料金の請求書を挟んだ。
 押しつけるように貸した翌日、電話をかけた。
「ごめん、請求書挟まってたでしょう? 携帯止まっちゃうから、取りにお伺いするわ」
 持って行くと安田さんは断ったが、それは悪いと熊岡さんは押し切った。それは礼儀に反していると。

 安田さん宅には夕方訪れた。
 タイミングがあえば旦那さんにもお目にかかりたいとの下心もあったそうだ。
 教えられた住所には、豪奢な洋風という想像とは離れた、どちらかといえば狭い、古びた一階建ての木造家屋だった。
 街灯はついているはずなのに、不思議にその家だけが冥い。
 チャイムを鳴らすと、安田さんはドアから半身だけのぞかせたという。携帯の請求書を突っ返すように差し出したそうだ。
 熊岡さんは受け取らず「お邪魔します」とドアノブに手をかけた。
 ちょっと、と安田さんは目で制した。
「いいじゃない、ちょっとくらい。お茶だけ飲んだら帰るから」
「でも」と食い下がる安田さんに、
「お菓子もってきたから」
 と熊岡さんは強引にドアを開けた。
 ――いささか無神経ではないだろうか。
 そんな私の視線に気づいたのか、弁解するように説明した。
「けど歩いたから本当に疲れていたの。だから休みたくて」
 家屋の中は外観の見た目よりも、さらに一つ酷かった。
 それは質素とよぶよりも貧しいと呼ぶべき生活レベルだった。 とても連日喫茶店に通うような余裕はない風に思えたという。
「てっきり、一流企業の旦那さんがいて、お洒落な一軒家だと思ってたの。ほら休みの日にパンとか焼くお家あるじゃない。あんなイメージだったの」
 けど全然違うの。熊岡さんは首を振った。
「壁とか床とか……全体的に薄汚れてて、今時さぁ、土壁なんてある!? ぼろぼろ剥がれてて、それが落ちててまた、もうねぇ……」
 ずかずかと入り込む熊岡さんを、安田さんはため息をついてから奥の和室に通してくれたそうだ。
「お茶を持ってくるから待ってて」
 熊岡さんのめぐる視線は止まらない。
 埃のかぶった日本人形、色褪せた箪笥、窓には横引きシャッターが閉めてあった。
 陽が入らないのはまだしも、電灯がついているのにまだ冥い。
 ぐるりと見回すと熊岡さんの視線は止まった。
 押し入れだった。
 襖は一面が黒く染まっていた。子供が塗る夜の海のように斑に染まっている。
 よく見ると指でほじくり破いたような穴が、二つ空いていた。
 近づいて見ようと腰をあげると、安田さんがお茶を一つだけ持ってきた。
 彼女の顔には『それを飲んだら帰って』と書いてあった、と熊岡さんは言う。
 世間話をしながら熊岡さんはこの家の内情を知ろうと水を向けた。
 しかし安田さんは俯くだけで答えようとしない。
 その時、襖ががたがたと内側から揺れた。
 途端安田さんは話し始めた。
 「主人は今いなくて」
 「子供には恵まれなくて」
 「二人暮らしなの。二人でつつましく暮らしてるの」
 聞いてもいないことを安田さんは答えたそうだ。その間も襖は震えた。
 音を掻き消すように安田さんの声が一層と強くなる。それに抗うように押し入れが激しく揺れる。安田さんが声を荒げる。
 熊岡さんが部屋を辞去する頃には喚き声に近かったそうだ。
 歩き出して数分後、声を嗄らした安田さんから電話があった。
「もう二度とこないで欲しい」
 そう言われたそうだ。
 戸惑う熊岡さんは説明を求めたが、つかの間の沈黙の後に電話は切れた。
 ただ言われるまでもなく、熊岡さんは行くつもりはなかった。
「電話が切れる前、聞こえたの。安田さんのため息の他に」
 けたたましい笑い声が響いていたという。

 後日近所のオバサンに話を聞くと、安田さんの旦那は事業に失敗し借金を背負っているとのことだった。
 家賃さえ捻出できなかった旦那さんは、債権者に言われるがまま今の家に住まされたという。
「あの家の前の住人は……いんや、これは余所から来たモンに言っちゃいけねぇ」
 と、いかにも意味深な、意地の悪い笑みをオバサンは浮かべたそうだ。

 都内ではない、大仏がある街の話である。

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別府

管理人です。ビックリしたときのリアクションは子供みたいです。

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