駅のトイレにて

 薮田さんはシステム会社の営業。四十一歳。離婚したが後妻の息子がいる。
 飲み会の解散後、信濃町駅の便所での出来事。

 小便をしている最中、背後、個室の壁に寄りかかり体育座りした男が床をゴッ、ゴッ、ゴッと短いスパンで殴っていた。
「汚ねぇ便所の床だよ? 内心ドン引きだよ。酔っ払ってるわけでもなさそうだったし」
 男は目に狂気を迸らせ、一心に床に叩く。
「そういう時に限ってションベンのキレが悪いんだよなぁ……。どうしても後ろが気になるわけよ」
 薮田さんが最も嫌がったことは男が近づいてくることだった。
 もし肩にでも触れられたらと思うと、怖気が走った。
 そしてその男はそんな突拍子もないことを実行してしまいそうな雰囲気を持っていた。
 理由はないが、今まで東京で見かけた各種各様のキチガイから薮田さんは油断できずにいたという。
 ――だが予想通りというか薮田さんは肩から首にかけて吐息を感じた。
「もう頭ん中は二択よ。振り向きざまに殴りつけるか、垂れ流すチンコ仕舞いこんで逃げるか」
 迷った末、薮田さんは逃げることを選択した。
 ケンカになったらたぶん勝てるが、傷害で逮捕されることは勘弁願いたいと酔った頭で考えたという。

 パンツに性器を仕舞いこむと、何気ない風を装って手洗いに移動した。
 さりげなく鏡を見る。
 誰もいなかった。
 音もしなくなっていた。
 便所には薮田さんだけだった。
 
「不思議だよ。床を叩く男だけじゃなくて、他にも小便している人がいたはずなんだよ。けれど……誰もいなかった。だーれもいない。そんなことってあるか? 俺はそこまで酔っていなかったよ。あれは一体なんだったんだ……」
 特に被害があるわけではなかったが、以来薮田さんは二度と信濃町駅の便所を利用しない。
「変質者に出会うのと、幽霊に出会うの、どっちがトラウマになるんだろうなぁ。できればもう二度と変な目にはあいたくないわ」

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別府

管理人です。ビックリしたときのリアクションは子供みたいです。

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