三郎さんが二十年ほど前に安アパート暮らしをしていた頃の話。
「実家は近くにあったんだけどなぁ、俺兄弟多いからとにかく一人暮らしに憧れてなぁ」
真夏の冷房もない熱帯夜、滝のような汗をかきながら目を覚ました。
窓からはそよ風すら入ってこない。扇風機のスイッチを押し、再び横になる。
ふと思う。
扇風機のスイッチはいつ消したんだ?
思い返しても自分で消した記憶はなかった。
(まぁ風がうっとうしくなったのか、無意識に消したのだろう)
三郎さんはそう結論づけた。
だが次いで、玄関の鍵が気になった。
「かけたか、俺?」
部屋は一階だった。四部屋だけの小さいアパートは入り組んだ路地の端っこにある。泥棒が入ろうと思えば造作もないことだろう。
(いや、泥棒だったらこんな貧乏アパートは狙わないサ)
(来るなら来いってんだ。目に物見せてやろうじゃないか)
三郎さんは当時少林寺拳法を習っていたので、腕には多少覚えがあった。
泥棒をつかまえたら新聞に出るかな――そんな空想をしていると今度ははっきりとした気配を玄関に感じた。例えるならゴキブリが部屋にまぎれこんだ時のような違和感だった、と三郎さんは仰る。
音はしなかったという。
三郎さんは一呼吸すると、あえて布団をおでこまで被る。意識は針のように鋭敏に。両手はボクサーのファイティングポーズのような姿勢で。若さは恐怖を感じるべき神経を鈍感にさせる。
(舐めるんじぇねぇゾ、一気にやっつけてやる)
玄関に存在する気配に五感を集中し、しばし待った。
だが次の瞬間、上から四つん這いで手足を押さえ付けらた。突然の事態に声をあげられない。いや、声どころか身体も微動だにしない。まるで麻酔をかけられたようだったという。
金縛りにあったことを三郎さんは理解した。
「もうおっかなくて、おっかなくて。完全にパニックだったわ。やっべぇ、やっべぇって頭ではすげぇ焦るんだけど、なぁんにも解決策は思いつかなくて。ただ俺、少林寺拳法やってたから、道場でいつもやってたこと思い出して。道場だと『せいや!』とか『とりゃ!』とか気合入れた声だすんだわ」
三郎さんは丹田に力をいれ、精一杯大きな声を出したという。
「おらぁぁぁ!」
押さえつけられた身体はビクともしなかったが、両目だけは動かせるようになったそうだ。
「とりあえずグルっと室内見渡したよ。そうすっと、いるんだわ。変なのが」
作業ズボンが見えた。
位置的に、三郎さんの頭の上あたりに立っている。
だが視えるはずの脚から上がなかった。ぼろぼろに汚れた作業ズボンだけが、まるで吊るされたように、ふらふらと動いていたという。
「それから二度三度、気合いれた声だしたら、金縛りは解けた」
ガバッと起き上がり、後ろを見たが誰もいなかった。なんだか腑に落ちないまま、それでも三郎さんは再び眠ったという。
私は驚きながら「豪胆ですね」と言うと三郎さんは首を振った。
「それで終れば別に良かったんだけどサ、その次の日、またその次の日、続いたんだよ金縛りが」
いよいよ怖くなった三郎さんは二つ年上の兄に相談したそうだ。
実害は金縛りだけだが、正体がわからないと何とも気持ちが悪い。
せめてやってくる時間だけでもわかれば対処のしようもあると三郎さんが言うと、お兄さんは自宅から持ってきた、光センサーを内蔵したモアイ型玩具を設置したという。
「これで少なくとも心の準備はできんだろって兄貴は置いていったんだわ」
「モアイ、ですか」
「おお。セガから発売していたやつだったかな? 通過する物を感知すると『オイ、誰か来たぞ』と喋るおかしなオモチャだった」
誰が何を考えて発売に踏み切ったのか私にはわからない、プラスチック製のシュールな玩具だった。
やはりというか当然というべきか、役には立たなかったという。
とうとう根をあげた三郎さんは最後の頼みの綱であるお母様に相談した。
数日後、御母堂は知り合いを数人呼び出し、三郎さんの部屋を調べたそうだ。
「なんつーかさぁ……、やっぱかーちゃんは凄ぇよ」
押し入れの上部、戸袋の中に、古びた御札は発見された。御札は釣られるタコのようにしっかりと張り付いていた。
御母堂は直ぐ様剥がし、呼んでいた知人に供養を依頼したという。
それからは部屋に怪異の類は一切無くなったという。三郎さんはとある事情でアパートを追い出されるまで、平穏な暮らしを過ごしたそうだ。
実家に戻って数年後、三郎さんは純然たる好奇心でかのアパートが建っていた土地を調べたという。
よくわからなかったそうだ。
まぁそういうこともあるだろうと私は思った。今までお聞きした話でも、いわく付きの場所でもないのに怪異が起こることは多々あった、
一応場所は尋ねた。「ひばりヶ丘」と三郎さんは答えた。
「あ、ちょっと待って。勘違いしてねぇかな。よくわからんなかったってのはサ、見つけられなかったって訳じゃないんだわ。逆、逆。多すぎて、どれに該当するんだか、よくわかんなかったんだわ」
三郎さんは苦いものを飲み込んだかのような表情を浮かべた。
「あそこの土地はなかなかディープだわ。一帯が爆撃を受けた飛行場跡って話もあるし、処刑場跡地だったっていう話もあるし。試しに『ひばりヶ丘 別れ道』で検索してみ。あのサ、『別れ道』ってバス停の名前なんだわ。おかしくねぇか、そんなタイトルの停留所」
唐突に出てきた単語に、私は「確かに」と頷いた。
三郎さんはいっそう声をひそめる。
「話によるとサ、昔はそのバス停らへんに、別れ道があったみたいで。ひばりヶ丘方面へ行くと処刑場があるから、罪人は処刑場へ。付き添い人はそこまで。文字通り『別れ道』だわな。親だか嫁だかの付添い人は見送るしかできないんだわ。今わの際の言葉も、断末魔も聞くことはできないって、それはそれで可哀想だよなぁ」
そんな場所だったから、どれが怪奇現象の原因だったか、よくわからない。
三郎さんは太い腕をさすりながらそう締めくくった。
最後にあと一つ、と尋ねた。
「アパートの位置? あぁんと、地図で見るとライフひばりヶ丘店とか、銚子丸の付近かなぁ」
霊感をお持ちの方には、該当エリアに引っ越す際には下見を存分に行い、熟考されることをお勧めする。