レリゴー

 杉並区某所。
 伊吹さんは深夜、防犯灯少ない道を歩いていた。長年共に働いた同僚への送別会の帰りだ。ひどく酔っ払っていたという。
 お酒を控えようと決めたばかりだったというのに、いつものように大酒を呷ってしまった。理由は宴会の場でなされた後輩の結婚報告だった。
(自分の送別会でもないっていうのに)
(今の若い子は)
(あの目は何なの)
(どうせ相手はろくでもない男のくせして)
(馬鹿のくせして)
 つらつらと酔いに任せて考え事をしていると、曲がり角の向こうから、聞き覚えのあるメロディーが聞こえてくる。

<ありの ままの わたしでいいの>
<ありの まま まま わたしでいいの わたしがいいの>

(同じ酔っ払いかしら)
 お世辞にも上手とは言えない女性の歌声だった。音程の狂ったアカペラ。歌詞も不確かだ。
 曲がり角でぶつかりそうになりながらすれ違う。伊吹さんは思わず後ろを振り返った。
 匂いが強烈だった。夏場の便所の悪臭を煮詰めたような匂いが鼻をつく。
 針金のような長髪に隠れ女の顔は一瞬しか見えなかった。中年のようにも見えたし、同世代のようにも見えた。
 女はゴミ捨て場から拾ったような汚れたドレスに、ぼろぼろになった伊勢丹の紙袋を両手にぶら下げていた。
 ぱんぱんに膨れた左脚からは黒い液体が滲み出し、歩く道にはなめくじのように跡がついていた。防犯灯に照らされたぬらりと光る足跡の筋。
(壊れた人だ)
 普段なら逃げるように去る伊吹さんだったが酔いが好奇心を増大させる。
 珍しい昆虫を見つけたように伊吹さんは眺めていた。
<だって もう 自由よ うそみたいね>
<どこまでやるのか 自分が……>
 当初は下手くそなモノマネショーにおかしみを覚えていたものの、見ているうちに胸の奥がどこか暖かくなってくる。
(……ありのままの自分)
 薄暗がりの悪臭漂う路上で聞く、壊れた人が歌う流行の応援歌。
(……そうよ、人のことを妬むことなんて意味がないわ)
(私には、私だけの生き方がある)
 まるで自分を応援してくれているようだった。こんな境遇にまで落ちながら人は明日を向こうとしているのだ。つまらない愚痴をアルコールでごまかそうとする自分が情けなくなった。
<光あびながら 歩きだそう>
 そうだ。そうしなくては。私は私なんだ。伊吹さんの目頭が熱くなる。
<これでいいの 少しも寒くないわ>
<寒くないわ 寒くないわ 寒くない 寒い 寒い 寒い 寒い>
 歌はサビに進まなかった。
(え?)
 歌が止まった。その唐突さにはまるで幼児がそっぽを向くような、不服そうな響きが含められていた。
「見てんじゃねえよバカ」
 女は振り返らずに怒鳴った。テープを早送りしたかのような早口だった。
 予兆もなかった怒りに伊吹さんは慌てた。どこか裏切られたような気分に陥ったもののバツの悪さをごまかす為とにかく口を動かした。
「あの、いい声ですね。ぐっときました」
 伊吹さんの声に女は声をあげた。
 っは。
 笑い声のようなえずくような声が聞こえたと同時に、地面にメロンほどのサイズのものが落ちた。
 女の頭部が首の上からなくなっていた。
「え?」
 目の前で何が起きているのかわからず、伊吹さんは身動きができなかった。
 ただただ女から眼が離せなかった。
(なにこれ。……ドッキリ?)
 わかることは下手に動けないということだ。視線を外せば――どうなるかわからないが――なにか危険なことが起きると本能的に理解したという。山で野犬に遭遇してしまったかのようだった。
 五分ほどだろうか、しばらくそうしていた。頭のないない女も微動だにしない。
 誰かが通りがかってくれないかと祈っていたが足音は一切しない。叫び声をあげることさえ忘れてしまうほどその時伊吹さんは固まっていた。
 掠れて声で囁くだけで精一杯だった。
「な、なんなのよ……」
 ふと気を抜いた瞬間だった。
 目の前を黒いものが上から下へとよぎる。同時に虫の羽音を百倍くらい大きくしたような音が耳をついた。 
 頭が降ってきた、視線を落とした伊吹さんはそのことに否応なく気づかされた。
 足元に崩れた頭部が転がっていた。頬がすりおろされ血と砂が混じっている。鼻があった場所は黒い一つの穴。千切れた瞼の隙間からも瞳はしっかり伊吹さんを捉えていたそうだ。
「見てんじゃねえよバカ」
 口とも呼べない冥い穴からはっきりとした言葉が耳に届いた。
 勝手に脚が動いていた。
 喃語のような意味不明の叫び声をあげながら伊吹さんは肺が痛くなるほど全力で逃げ出したという。

「コンビニ見つけたときはほっとしたあまり、むちゃくちゃな買い物しちゃいました。お弁当やら飲み物やらアイスやら……」
 ムダ買いしたアイスがまだ残り二十本も冷凍庫にしまってあるそうだ。
「食べなきゃって思うんですけど、あの晩のことを思い返すとそれだけでゾっとして、冷たいの食べられなくなっちゃうんです」
 ちまちまと遊びにきた友人に振舞っているそうだ。
 辞去する際に私も一本もらったので、舐めながら帰った。
 ともかく彼女はそれ以来、飲み会の帰りには必ずタクシーを使用するようになったという。
「世界が自分に優しくしてくれる、そんな幻想は、きっと、たぶん、抱いちゃ駄目なのよね」

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別府

管理人です。世間一般で言う、いわゆる恥知らずです。

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