南野雄大(仮名)は昭和六十年生まれ。性格は自他ともに認めるお調子者。野球は特に見ないが、自分に似ているという理由から千葉ロッテの里崎は応援している。
あれは確か木曜日だった、と南野は言う。
「仕事が終わって、同期と軽く一杯ひっかけた帰りでした。ビール一杯とハイボール一杯かな? 新宿に新しくできた立ち呑み屋に寄って」
電車はちょうど混む時間で座るどころ吊り革さえ掴めなかった。
「それでようやく駅について。立ちっぱなしで疲れたなぁって思ってたんです。普段は自転車で駅まで行き来してるんですけど、今日はダルいからタクシー使っちゃおうと考えてました。ちょっと急ぎ足で地上出口に向かう昇りエスカレーターに乗ったんです。もちろんそれも混んでるんですけど、あれって別に順番とかうるさくないじゃないですか。だからささっと列に入り込んで。後ろに親子連れがいたんで『失礼』と会釈しました」
そのエスカレーターは割りと長く、南野はスマートフォンをいじりながら到着を待っていた。その時、革靴のかかとを踏まれた。
「別に痛くはないんですけど不快ですよね。後ろをちらっと見たら、男の子で。保育園かな? それとも小学生低学年なのかなぁ。僕ら独身はパッと見てわかんないじゃないですか子供の年齢なんて」
再びスマートフォンを見やった。
もう一度、今度はさっきよりも強くかかとを踏まれた。
反射的に子供を振り返った。
「男子はお母さんの方見てて。それで非難の意味もこめてお母さんに視線を送ったんですけど、その人絶対僕の視線に気づいてるはずなのに、こっち見なくて」
それで思わず舌打ちをしてしまった。
チッ。
思ったより大きな音が出てしまい、前の人すら振りむいた。
「それで我にかえって。大人げないなぁって反省したんです。けど後ろから音がしたんです」
子供の声だった。「んー」と発声練習のようだったという。
「子供って意味なく声出しますよね。アーとかイーとか。よく電車内で見かけます。退屈でふざけてるんですよね。だから気にしなかったんですけど……」
エスカレーターが地上に着いても、声は終わらなかった。南野がタクシーを拾おうと大通りに向かう途中も「んぅんんー」と後ろから声が追いかけてくる。
「振り向いたら……男の子が僕の尻ポケットあたりから見上げてるんです」
お母さんは子供の二、三メートル後ろでニコニコ微笑んでいた。
「それが『うちの子ったら悪戯好きだから』ってな表情で。なんだよそれ、常識なさすぎるだろって頭に血が上ったんですね。それで……今考えると失敗だったんですけど……『なんだよ』って強い口調で怒鳴っちゃって」
子供はビクッと体を震わせたという。
「嫌な気分になりました。黙って無視しておけば良かったのかなぁ……まぁとにかく帰ろうとスタスタ逃げるように歩いて、一切振り向かないで。大通りでタクシーを待ってたんです」
青梅街道は夜でも交通量が多い。オーディオを改造した車から街宣車のようにサイケが流れていた。
その通り過ぎていく音に混じり、後ろからタタッタッって何者か駆けてくる音がした。だんだんと近づくそれは「んー」と甲高い音を出している風に聞こえた。
南野は嫌な予感がして、体を慌てて一歩左にズラした。
ギリギリのタイミングだった。
今まで南野が立っていた場所に、細い両腕を伸ばした男の子が全速力で突っ込んできた。
男の子は器用に体全体にブレーキをかけると南野を見上げた。
ニタァっと満面の笑みを浮かべていた。
南野が声を出せないでいると、男子は、
「おかぁさーん! 失敗したー!」
と南野の背後に向かって叫んだ。振り向けなかったが、母親は先ほどと同じように「あらまぁうちの子が」と微笑んでいるに違いないと、なぜか確信した。
ちょうどタクシーがきたので、南野はそれに飛び乗った。そこを離れるまで窓は見れなかった。あのブレーキのかけ具合は初めてじゃない、絶対に慣れている動きだ、と南野は感じたという。
「アレは何だったんでしょう?」
わからない、と私は答えた。