眠剤中毒

「今じゃもうコレが手放せなくって……駄目だ駄目だってわかってるんだけど……」
 平野さんは小瓶を振ってみせた。
 中身は全て睡眠薬である。
「エミネムって知ってる? アメリカの音楽の人。あの人が以前、睡眠薬中毒になったってニュースあったけど、ほんと中毒になるの」
 私は頷いた。
「けれど以前はね、お薬なんて一粒も口にしたくなかったのよ」
 眠れないのは辛いですよね、と私が口にすると彼女は首を振った。
「眠らなきゃいけないの、私は、夜は」

 初秋の週末だった。
 ホームで電車を待っていると、すぐ横の階段を駆け下りてくる男性がいた。
 四十代くらいの、筋肉質なサラリーマンだった。
「痛っ」
 サラリーマンのバッグにぶら下がっていたストラップが、平野さんの腕を掠った。
 じわりと血が滲み、切り傷になっている。
 反射的に文句の言葉が喉に出た。
「ちょっと! 謝ってくださいよ!」
 しかし相手は消えていた。
 電車の急ブレーキの音が爆発したように鳴り響いた。
 屋上からスイカが落下したかのような音がした。
 静寂。
 まるで水中にいる時のように耳が遠くなった。
 水面より外で叫び声がするような気がする。
(あ、子供の頃のプールみたい……)
 気を失っていた平野さんは駅の救護室で目を覚ました。痛いほどぎゅっと体を縮ませていたという。
 駅員さんに礼を言って外に出ると腕に鈍い痛みがあった。切り傷は短時間で紫色に膿んでいた。
 駅員さんからの説明が一切ないことに、かえって強烈な人身事故が起きたことを平野さんは察したという。
 
 その日は一件、用事をすませた後に夕方から友人との約束があった。
 昼間の出来事から気が進まなかったが、友人はわざわざ鹿児島からやってきている。
 行かないわけにはいかない、と逡巡した後に平野さんは決意した。
 渋谷の待ち合わせ場所に到着するとすでに友人はきていた。
 久しぶりだと騒ぎながら挨拶を終えると、友人は一瞬妙な顔つきをし、ふんふん、と鼻を嗅いだ。
「ねぇ、なにかその……汚れ物でも持ってる?」
「なによそれ。失礼ね。お洗濯はちゃんとやってるわよ。これから美味しいの食べるんでしょう?」
 正直、食欲は全くなかった。
「じゃあ香水? 本当に汚れもの持ってない?」
「ちょっと、いい加減にしてよ」
「これは?」 
 友人が腕の絆創膏に目をとめた。
「あ、昼間事故があって……私は切り傷で済んだけど、すっごい大変だったみたい……」
 友人から、重ねて質問がないことに安堵した。
 ただ一言「なんかそれ厭な空気出してる」と友人は呟いた。
 険悪な空気になりかけたが予約していたイタリアンレストランに入ると、さっきまでの厭な気分はどこかに消えうせた。
 平野さんは下戸なのでスパークリングウォーターを、友人は赤ワインを飲み楽しい時間を過ごせたという。
 アパートに辿り着くころには昼間のできごとはすっかり忘れていた。

 もとから平野さんは寝つきが悪かった。
 以前知り合いから睡眠薬を勧められたが、必要のない薬を体内に取り込むことには激しい抵抗があった。
 サプリの類も飲めないくらい、体にわけのわからないものが吸収されることが嫌だった。
 その日は帰宅するとシャワーを浴び、ホットミルクを飲んでから平野さんは布団にもぐりこんだ。
 身体が温まったせいか、昼間の傷跡がじくじくと痛み始めた。
 それにつれて葬り去って昼間のアクシデントが蘇ってくる。
 あぶり出しのように目撃した光景が、サラリーマンの後ろ姿が、響いた音が、脳裏に再現される。
 まったく眠気の訪れはこない。
 まんじりともせず布団寝返りを何度もうつ。

 ダン……ダン……。
 ドアがノックをされる音が響いた。
 まるで宅配の人が急いで荷物を渡しにきたかのようだった。
 だが深夜の二時である。
 ダン……ダン……。
 再び鳴った。
(たぶん違う部屋……) 
 隙間風の入るような木造アパートだったので音が響くのだ。
 以前もドアチャイムに反応したら違う部屋への訪問者だったことがある。
 平野さんは自分に言い聞かせた。
 尿意を感じ始めたが、布団から身動きはできなかった。
(さっさとどっかいってよ)
 ダン……ダン……。
 音の鳴る場所が変わった。
 平野さんの一室は1Kで台所に玄関がくっついているタイプだ。
 音はキッチンから聞こえる気がした。
 まな板で肉を叩くような音だった。
 平野さんはキッチンと居間を遮る曇りガラスを決してみないようにしたという。 
 電気を消してから小一時間経っていたせいで、暗がりにすっかり目がなれてしまっている。
 もしなにかいたら……。
 平野さんはその考えを振り払った。
(絶対、隣人だわ)
(明日にでも不動産会社に文句言わなくちゃ)
 そうこうしているうちに、体が麻痺するような眠気がようやく訪れた。

<ええ、はい>
 はっきりとした人の声がした。
 間違いなく部屋の中からだった。
 平野さんの眠気がいっぺんに吹き飛んだ。
 何かがいる。
 薄目をあけて、そうっと確認する。
 影だった。
 人型の影。
 輪郭は溶け、綿菓子のように曖昧だが人の形をしている。
 平野さんは身を起こそうとしたが動けなかったという。
 金縛りなんて生まれて初めてだった。
 足元と布団の間には若干隙間がある。
 平野さんがあまり暖かくなりすぎないように、あえて冷気が通るようにしておいたせいだ。
 その隙間にめがけて、影はやってきた。
 侵入を防ぐ手立てはなかった。
 なめくじのような実体感が彼女を襲った。
 影は布団に侵入し、さらにパジャマの裾から侵入した。
 ぬるっとした、まるで巨大な犬の舌に舐められているような感触だった。
(ちょ、っと、やだ)
 助けを求めようとするが細い笛のような音しか喉からは出ない。
 向こう脛を、太腿を、腰を、骨盤を、乳房を、這うような感触が伝わる。
 当初は怯えきっていた平野さんもいつしか不快感が怒りに変わっていたという。
 身動きもできない、声も出せない。
 だが心の底から睨みつけてやろうと考えていた。
 首元をまさぐる感覚。
 パジャマの上着から出てくる、そう構えた瞬間。
 目に入ったものは空気の抜けたサッカーボール。
 力任せに踏みつけられたサッカーボールのように見えたが、違った。
 陥没した頭蓋と、滑り落ちそうな眼球だった。
 男か女かも判別できない。
 ただただ死体、それもかなり損傷の激しい死体だとしか判別できなかった。
<いたかったぁ>
 骸は半笑いで呟いた。
 剥きだしの歯茎が腐臭を放ちながら平野さんの唇に触れる。
 平野さんは地面に引っ張られるように意識を失ったという。

「怖い目にあって、引っ越す人っているじゃない。けどあれって人それぞれっていうか、余裕のある人限定なのね。私みたいにお金がないと怖くて怖くて嫌だけどすぐに引っ越すこともできない」
 貯金が貯まって、引越しができるまでに平野さんはさらに二度その怪物を見ることになった。
「まだ駄目。引っ越してからも、夜が怖いの。だから私は今夜も薬を飲むの。朝まで起きなければ、またアレを見ることはないんだから。もう絶対に見たくないの」
 ハルシオン、レンドルミン、マイスリー、サイレース、
 歌うように彼女は言う。
 最後に彼女はこんなことを口にした。
「明けない夜がないということは、確実に、夜は、毎日やってくるということなの」

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別府

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